二所詣(2)

中世の日本人にとっての熊野と伊豆。
これまでも繰り返し述べてきたように、熊野と伊豆という二つの土地の結びつきが、中世の封建社会の成立という日本史における重要な出来事に与えた影響に、私は強い関心を寄せているのですが、熊野と伊豆の関連を示す別のエピソードを紹介したいと思います。

『神道集』という、南北朝時代に編纂された神道の説話集の第二巻は、熊野権現と、伊豆箱根の二所権現を一組として扱い、それらの縁起物語を記載しているのですが、中世の人々の想像力が生み出した熊野と伊豆に関する物語の内容と構造がとても似通っているのです。

まず、『神道集』は、熊野権現の由来を次のように説明します。

中天竺の摩訶陀国に善財王という大王がいた。 大王の千人の后の内、源中将の娘の五衰殿の女御(別名は善法女御)は最も醜女だった。

女御は千手観音を深く信仰して、三十二相八十種好の姿となり、大王の寵愛を得てついに懐妊した。

残りの九百九十九人の后は女御を嫉妬し、占師を買収して「生まれてくる王子は八頭の鬼神で、大王を食い殺し、天下を滅ぼすだろう」と予言させた。 また、老女に鬼の扮装をさせて都で騒ぎを起こさせた。 その結果、大王も女御の処刑に同意せざるを得なくなった。

后たちの命を受けた六人の武士は、女御を鬼谷山の鬼持ヶ谷に連れ出した。 そして、王子を出産して乳を与えている女御の首を斬り落とした。 その夜、血の匂いを嗅ぎ付けてやって来た十二頭の虎が王子を養育し始めた。

王子が四歳になった頃、三十里程離れた山奥で喜見上人が仏道修行をしていた。 法華経の薬王品を講じている時、一匹の蜘蛛が 「鬼持ヶ谷に善財王の王子が十二頭の虎に養われている。引き取って大王にさしあげよ」 と糸で文字を書いた。上人は王子を探し出して虎たちから引き取り、三年間養育した。

王子が七歳になった時、上人は王子を連れて宮中に参上した。 そして、五衰殿の女御の最期や虎が王子を養育した事などを大王に話した。

大王は王子・上人と三人で金の早車に乗り、五本の剣を投げた。 第一の剣は紀伊国の神蔵、第二の剣は豊前国の彦根嶽、第三の剣は陸奥国の中宮山、第四の剣は淡路国の和、第五の剣は伯耆の大山に留まった。 大王の車は剣に従って最初に彦根嶽に着いた。 それから各地を転々として、最後に第一の剣に従って紀伊国の牟婁郡に留まった。 日本に来てから七千年は顕れなかった。

牟婁郡の摩那期(真砂)に住む千代包という猟師が獲物を待っていると、八咫烏が現れた。 猟師は大きな猪に手傷を負わせて跡を追い、八咫烏に導かれて曽那恵に着いた。 そこには猪が倒れており、烏は何処かへ見えなくなった。 猟師は空に光り物を見つけて怪しみ、大鏑矢でその光り物を狙った。 光り物は三枚の鏡で、「我は天照大神の五代目の子孫で摩訶陀国の主である。帝王をはじめ万民を守る神である。熊野三所として顕れたのは我が事である」と答えた。

猟師が弓矢を捨ててお詫びをし、木の下に三所の庵を造って「こちらにお移り下さい」と祈ると、三枚の鏡は庵に移った。 千代包は山を出て宣旨を賜るために都に上った。 熊野権現も藤代から飛行夜叉を遣わして夢でお告げをしたので、帝も早く御宝殿を造るよう仰せられた。 三所の御宝殿が建立され、千代包はその宮の別当となった。 人皇第七代孝霊天皇の御代の事である。

(出典: 「『神道集』の神々」第六 熊野権現事)


そして、『神道集』は、伊豆箱根の二所権現の由来について次のように記しています。

二所権現は天竺の斯羅奈国の大臣・源中将尹統の姫君たちである。

中将は財産には不自由が無かったが、子宝には恵まれなかった。 夫婦で観音菩薩に参詣して子授けを祈願した。 七日目の満願の夜、夢に観音が示現し、水晶の玉を左の袂に入れた。 まもなく、北の方は懐妊し、美しい姫君を生んだ。 法華経如来寿量品に因んで、常在御前と名付けた。

常在御前が五歳になった時、北の方が亡くなった。 常在御前が七歳になった時、中将は隣国の姫君を後妻に迎えた。 新しい北の方も懐妊し、姫君が生まれた。 常在御前の妹なので霊鷲御前と名付けた。

常在御前が十六歳、霊鷲御前が九歳になった時、父中将は三年間の大番に当たって都に上った。 父中将は常在御前に唐鏡と蒔絵の手箱を贈った。 これを見た継母は自分たちが蔑ろにされていると思い、常在御前を殺そうと企てた。 継母は十人の漁師に頼んで常在御前を塩引島に流したが、地蔵菩薩と観音菩薩の憐れみにより常在御前は乳母の許に帰る事が出来た。 次に、継母は常在御前を土牢に幽閉したが、霊鷲御前がそっと食物を運んだので、三年経っても無事だった。

継母は常在御前を旦特山の麓に連れて行き、千本の剣を底に立てた深い穴に突き落して殺そうとした。 霊鷲御前は常在御前にそっと小刀と木端を渡した。 常在御前は小刀で木端を削りながら旦特山に連れられて、そこで穴に突き落とされた。 霊鷲御前は削り屑を辿って常在御前の跡を追いかけて旦特山までやって来た。

その頃、旦特山で巻狩をしていた波羅奈国の二人の王子が、霊鷲御前の泣き声を聞きつけてやって来た。 事情を聞いた太郎王子は穴に入り、常在御前を救出した。 穴の底の剣は常在御前の母君がもぐらになって抜き捨てていた。 王子たちは姫君を波羅奈国に連れ帰り、太郎王子は常在御前を、次郎王子は霊鷲御前を后にした。

父中将が都から帰ると、二人の姫君の姿が見えない。 父中将は出家して波羅奈国を通り、千手観音に祈願し法華経を読誦した。 二人の姫は中将入道が自我偈の「常在霊鷲」を繰り返し読む声に気付き、ついに父娘の面会が適った。

中将入道が斯羅奈国に帰ってみると、北の方は五丈くらいの大蛇の姿になっていた。 これを見た中将入道は財産を船に積んで波羅奈国に移り住んだ。

大蛇になった北の方が中将入道を追って来るという噂が波羅奈国に流れた。 中将入道はこれを聞いて日本に渡る事にした。 二人の姫と王子も中将入道に同行して、相模国大磯に到着した。

高礼寺(高麗寺)に一夜滞在した後、中将入道と太郎王子と常在御前は北山の駒形嶽に箱根権現として顕れた。 次郎王子と霊鷲御前は下山の西沢峠に伊豆権現として顕れた。 北の方も中将を追って来たが、次郎王子の呪法により、伊豆・相模の国境で石神と化した。

(出典: 「『神道集』の神々」第七 二所権現事)


摩訶陀国や波羅奈国は、釈尊存命時代にインドに存在した「十六大国」の中の国々であり、それぞれ「マガダ国」や、ヴァーラーナシーを首都とした「カーシー国」に相当します。「マガダ国」と「カーシー国」は国境を接する隣国同士でした。

これらの国々が存在した地域には、仏教の最初の寺院「竹林精舎」や、釈尊が法華経を説いたとされる「霊鷲山」や、釈尊が悟りを開いた後に初めて説法を行った「鹿野苑」という釈尊ゆかりの仏教の聖地が存在します。

中世の日本人は、熊野や伊豆・箱根のような日本のローカルな土地が、仏教が生まれた古代インドの様な普遍的な世界と結びついていると考えました。

中世の日本人が、熊野や伊豆・箱根の神々のもともとの姿(本地)は、古代インドで隣国同士に暮らし、人間の嫉妬心に苦しめられるという同じ境遇の中に置かれていた貴人の親子として解釈し、熊野と伊豆を、共通点と関連をもつ土地として一括りのものとして捉えていたことは、とても興味深い事実に私には思われます。
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