二所詣(1)

伊豆と熊野と蔵王権現。
初詣は、源頼朝が1188年に初めて行って以来、鎌倉幕府が滅亡する直前の1327年まで、鎌倉幕府によって続けられた「二所詣」の目的地であった、三つの神社を参拝しました。

将軍に随行する御家人の一行は、毎年正月に、鎌倉の鶴岡八幡宮を参詣し、由比ヶ浜で身を清めた後、箱根権現(神奈川県箱根町の現箱根神社)と走湯権現(静岡県熱海市の伊豆山神社)という、当時は神仏習合の修験道のお寺であった「二所権現」と、三島大明神(静岡県三島市の現三島大社)を参拝して、鎌倉へと戻りました。

この三つの聖地は、伊豆に流された源頼朝が源氏再興を祈願して深く帰依した場所であり、白鳳時代に中国から導入された律令制度に基づく、中央集権的な「古代」の王朝体制が瓦解し、地方分権的・封建的な「中世」の武家体制が確立される上で、精神的な基盤となった場所として重要です。


(箱根神社)


(箱根神社)


(箱根神社は、芦ノ湖畔に立つ吉田茂が奉納した赤い鳥居で有名です)


(伊豆山神社)


(伊豆山神社)


(伊豆山神社から見下ろす熱海の海)


(小泉今日子さんが伊豆山神社に奉納した鳥居)


(三島大社)


(三島大社)


(三島大社を参拝した一遍上人にちなみ、毎年時宗のお坊さんが踊り念仏を三島大社に奉納します。仏教のお坊さんが神社で法要を行うのは珍しいことのようです。一遍上人が、時宗を開くことを決めたのは、熊野本宮に参籠中に熊野権現から「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」と託宣を受けたことによるとされていますから、一遍上人を介して、熊野と伊豆は密接なつながりをもっています。)

中国の律令制度に依拠した中央集権的な「古代」の王朝体制から、地方分権的な「中世」の武家体制への移行は、日本の歴史において、アンシャン・レジーム(古い体制)を否定し乗り越えようとする革新的な出来事であったというよりは、律令制導入以前の古い日本の源流に遡ろうとする復古的な意味を持っていました。

律令制導入以前の日本も、武家によって開かれた「中世」の封建社会と同様に、地方分権的な時代だったからです。

律令制度導入以前の日本において、地方分権的な体制を支えていたのは、日本各地の地祇(国津神)たちですから、律令制導入以前日本や、鎌倉時代から江戸時代にかけての「中世」の武家体制を、「地祇的な時代」と呼ぶことができます。

それに対して、律令制の導入や記紀の編纂を通して開始された中央集権的な王朝体制、また武家体制を否定し、再び「古代」の王朝体制を理想として開始された明治維新以降の時代を「天神的な時代」と呼ぶことができます。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「天神的な時代」から「地祇的な時代」への回帰と移行を精神的に促したのが、熊野や、箱根・走湯の「二所権現」や三島大明神だったのであり、その根底にあるのは、役小角が、律令体制が整備されようとしていた白鳳時代に、山中に籠もって切り開いた修験道です。

修験の道とは、単に「文明」から「自然」の中に回帰しようとする道であっただけでなく、白鳳時代において中国からもたらされた律令制や、明治維新において西洋からもたらされた近代的な国家体制を超えて、日本のもともとの姿に遡ろうとする道でもありました。

役小角が律令政府から伊豆に流されたように、源頼朝が伊豆に流されたこと、そして源頼朝や鎌倉幕府が、二所権現という修験道の聖地に帰依したことは、決して偶然ではなかったと考えられます。

これまでも述べてきたことですが、伊豆という土地と、熊野という土地は、役小角の足跡や、修験道の伝統を介して深い密接な関係で結ばれています。

南北朝時代に編纂された神道の説話集『神道集』の第二巻が、熊野三山に関する「熊野権現事」と、伊豆・箱根の二所権現に関する「二所権現事」という二つの説話によって構成されていることは、決して偶然ではありません。

伊豆山神社(走湯権現)のご神木は、熊野速玉大社と同じく梛木の木であるというように、伊豆山神社において熊野の痕跡を見つけることができるのですが、今日は、さらに興味深い例を加えたいと思います。

伊豆山神社に雷電社という摂社があります。


(伊豆山神社、雷電社)

この雷電社の祭神は瓊瓊杵尊であると現在は説明されていますが、この摂社は、さらに深い背景をもっています。

まず、『走湯山縁起』によれば、雷電社には「雷電金剛童子」という熊野権現の王子を祀っていたと説明がされています。

この「雷電金剛童子」とは、熊野曼陀羅に描かれる「礼殿執金剛」と同体であり、「礼殿執金剛」とは、熊野本宮の拝殿に相当する「礼殿」に祀られていた「執金剛」のことです。

「執金剛」とは「金剛力士」(仁王様)と起源を同じくする仏教の守護神であり、チベット仏教の法具である「金剛杵」を掲げていることから「執金剛」と呼ばれるのですが、「礼殿」(らいでん)が「雷電」(らいでん)と書き改められていくことによって、「執金剛」に雷神のイメージが重ねられるようになります。


(中世の熊野曼陀羅に描かれた「礼殿執金剛」、画像出典『怪異学の技法』)

興味深いのは、熊野曼陀羅に描かれる、右足を踏み上げる「礼殿執金剛」の姿と、金峯山寺に代表される修験道のお寺に祀られている蔵王権現の姿がとても似通っていることです。


(修験道の総本山、金峯山寺の秘仏、蔵王権現)

蔵王権現の原型は、熊野曼陀羅に描かれる「礼殿執金剛」なのかもしれません。

とすると、伊豆山神社の摂社雷電社に祀られていた「雷電金剛童子」は、「礼殿執金剛」+「雷神」=「蔵王権現」である可能性が考えられます。

参考文献: 東アジア怪異学会(編)『怪異学の技法』所収、梅沢恵「熊野の知られざる異像-礼殿執金剛-」

このように、伊豆と熊野は深い部分で密接につながっているのですが、このことは、役小角が律令政府によって伊豆に流された事実、また役小角と同様に伊豆という土地に流された源頼朝によって「中世」が開かれていった事実と、無関係であるとは思われません。
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