どん底に降り立つ
本来無一物。
熊野本宮大社の旧社地「大斎原」(おおゆのはら)は、現在、大きな鳥居と小さな祠を除いては何にもない、熊野川の中州にある小さな森です。
明治22年の熊野川の大洪水で、古い歴史をもつ貴重な社殿が流されてしまったからです。
しかし、「大斎原」は、何もないことによって、むしろ、私たちに多くのことを教えてくれる、神聖な場所となっているように思います。
「大斎原」のように何もない場所に立ち、「何もないこと」「何も持たないこと」が基本であり、原点であり、人間の本来の姿だと分かると、自分が様々なものを与えられていることに鮮明に気付かされるようになるからです。
何もない底、これ以上の底がないほどのどん底に降り立つとき、さまざまな物事によって、あれよと言う間に、満たされていくようになります。
逆に、自分が何かをもっている状態が基本であり、自分の本来の姿と考え、それに執着すると、物事が失われていくことや、自分がもたない物事について、不平や不満を感じたり、心を苦しめたりするようになります。
これは昔から多くの宗教家によって言い古されてきたことではありますが、本当にそうだなあと気付かされる、今日この頃です。
明治22年の熊野川の大洪水で、古い歴史をもつ貴重な社殿が流されてしまったからです。
しかし、「大斎原」は、何もないことによって、むしろ、私たちに多くのことを教えてくれる、神聖な場所となっているように思います。
「大斎原」のように何もない場所に立ち、「何もないこと」「何も持たないこと」が基本であり、原点であり、人間の本来の姿だと分かると、自分が様々なものを与えられていることに鮮明に気付かされるようになるからです。
何もない底、これ以上の底がないほどのどん底に降り立つとき、さまざまな物事によって、あれよと言う間に、満たされていくようになります。
逆に、自分が何かをもっている状態が基本であり、自分の本来の姿と考え、それに執着すると、物事が失われていくことや、自分がもたない物事について、不平や不満を感じたり、心を苦しめたりするようになります。
これは昔から多くの宗教家によって言い古されてきたことではありますが、本当にそうだなあと気付かされる、今日この頃です。
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