どん底に降り立つ

本来無一物。
熊野本宮大社の旧社地「大斎原」(おおゆのはら)は、現在、大きな鳥居と小さな祠を除いては何にもない、熊野川の中州にある小さな森です。

明治22年の熊野川の大洪水で、古い歴史をもつ貴重な社殿が流されてしまったからです。

しかし、「大斎原」は、何もないことによって、むしろ、私たちに多くのことを教えてくれる、神聖な場所となっているように思います。

「大斎原」のように何もない場所に立ち、「何もないこと」「何も持たないこと」が基本であり、原点であり、人間の本来の姿だと分かると、自分が様々なものを与えられていることに鮮明に気付かされるようになるからです。

何もない底、これ以上の底がないほどのどん底に降り立つとき、さまざまな物事によって、あれよと言う間に、満たされていくようになります。

逆に、自分が何かをもっている状態が基本であり、自分の本来の姿と考え、それに執着すると、物事が失われていくことや、自分がもたない物事について、不平や不満を感じたり、心を苦しめたりするようになります。

これは昔から多くの宗教家によって言い古されてきたことではありますが、本当にそうだなあと気付かされる、今日この頃です。
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本来無一物

私も、このように感じては忘れてしまう、の繰り返しで終わっているのを反省しつつ、
>「何もないこと」「何も持たないこと」が基本であり、原点であり、人間の本来の姿だと分かると、自分が様々なものを与えられていることに鮮明に気付かされる
と同時に
>自分が何かをもっている状態が基本であり、自分の本来の姿と考え、それに執着
している自分の状態にまざまざと気づかされて、愕然とすることがありますね。
それだけでなく、自分に与えられている、自分を満たしてくれている「さまざまな物事」の置き換え、または優先順位の置き換えが起こって、「もっている」ことにより却って自分を苦しめている物事の存在にも気が付かされて捨てたくなるわけですが、その中には物質的な物事だけでなく、人間関係だとか思考パターンなども含まれますよね。
政治においても、「右か左か」「自民党が民進党か」「アメリカか中国か」といったような二元論思考(二つのうちのどちらかしかないから、どちらかを選ばなければならないといったような)だとか、「安倍政権を支持することによってしか、満たされない、守られない、満たしてもらえない、守ってもらえない」と思いこまされていることなどによって自縄自縛に陥っている方々にも、読んで頂きたい記事だと思います。
また、WJFさんも触れておられたように、「安倍首相の他に誰がいる?」はなく、「誰もいない」現実を受け入れる姿勢も、このような体験を通して自然と培われていく場合もあるのではないかと思います。
余談になりますが、日本会議絡み、またはそうでなくても安倍首相を支持している「生長の家」の皆さんにも読んで頂ければと思うことが多いWJFさんのブログです(「趙州狗子」や「臨済録」を念頭に置きさえすれば、理解できる素養はある筈ですが、組織になるとそこが真っ先に「去勢」されるようで)。

言葉足らずの点はありますが、今朝目が覚めたときに「何故、未だに安倍首相やそのお仲間であるおかしな専門家だの評論家だのに恋々としている人がいるのだろう…」という素朴な疑問が湧くと同時に、こちらの記事の副題にもなっている「本来無一物」という言葉を思い出したので、ちょっと書かせて頂きました。

そうですね、

今や日本のみならず、世界中の国々で″モノ″を持たない人の方が奇異な目で見られるのは悲しい事です。

素晴らしい
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