北京滞在記(4)

北京の地理と歴史。
北京の気温が日本より低かったせいか、八達嶺長城の気温が北京市内よりさらに低かったせいか、北京の空気が悪かったせいなのか、人混みの中でうつされたのか、すっかり風邪をひいてしまったようで、頭が痛く、咳がとまりません。

簡単に、北京の地理と歴史をおさらいしておきましょう。



上の航空写真の赤い線で囲った部分は、北京「内城」の城壁があった場所、青い線で囲った部分は、北京「外城」の城壁があった場所を表しています。

現在、「内城」の城壁跡の地下には、環状の地下鉄2号線が走っており、東京の山手線に似た役割を果たしています。

「内城」の大きさをイメージしていただくために、同じ縮尺の東京と京都の地図の中に、「内城」の輪郭をはめてみました。





山手線環内に十分おさまる程度の広さであることがおわかりになると思います。

「内城」と「外城」の城壁は、1960年代に毛沢東によって取り壊されましたが、その城壁跡には、現在、北京二環路という環状道路が走っています。

上の航空写真の「内城」の北側に、東西に走る太い線が見えると思いますが、元の時代の都城「大都」の城壁跡であり、現在、「元大都城垣遺址公園」として整備されています。

元の時代には「外城」もなく、大都城の区域は下のようだったそうです。


(画像出典: 唐暁峰「明 ・ 清時代の北京城の都市計画と構成配置のもつ意味」)

明の時代に、大都城の北側部分を大きくけずり、さらに南側の城壁を若干南にずらして、北京「内城」が確立されました。

明代中期にモンゴルの騎馬兵が南下してきたために、「内城」の防衛のために、その周囲をとりかこむ外郭の建設が計画されましたが、財政的な理由のために南側部分だけが完成し、北京「外城」が誕生しました。

満州民族の征服王朝である清朝になると、満州民族と漢民族の分離政策が採用されたため、「内城」は、満州民族の居住地域、「外城」は漢民族の居城地域と定められ、「外城」の漢民族は日中は所用のために「内城」に入場することができても、夜間の滞在は許されないなどの法律が設けられていたそうです。

「外城」が身分が低い人々の居住区域だった名残として、北京では「南部=労働者の居住区」というイメージが現在も存在しているそうです。(出典)

また辛亥革命までは、「内城」の内部に、さらに「皇城」という区画が城壁によって囲まれていました。

下の図の内城内の太線が「皇城」の跡を示しており、紫禁城と、その北部にある人工の築山「景山」、紫禁城の西に広がる湖「什刹海」などの庭園を含む区画です。


(画像出典: 唐暁峰「明 ・ 清時代の北京城の都市計画と構成配置のもつ意味」)

天安門は、紫禁城の門ではなく、「皇城」の門でした。

「皇城」の城壁は、辛亥革命によって中国古代以来の帝政が廃止され、宣統帝溥儀が退位した後、1920年代に破壊されました。

参考文献:
唐暁峰「明 ・ 清時代の北京城の都市計画と構成配置のもつ意味」
後藤雄二「北京皇城 とその周辺地域における清末以後の機能変化」

辛亥革命や共産主義革命という革命は、古い秩序を守っていた北京城の壁を破壊していきました。
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