つながっている
我が家の蔵王権現。
金峯山寺に蔵王権現のご開帳を拝観にいったとき、お坊さんが、講話で、「すべてつながっているのですよ」というお話をされていた。
「みなさんは、ふだん、それぞれ、ご先祖様をおがんだり、氏神様を大切にしていらっしゃることでしょう。みなさんが今日、御覧になった蔵王権現も、みなさんが、ふだん大切になさっているものとつながっているのですよ。だからみなさんがふだん大切にされてこられたものを、そのまま大切にされていかれれば、それでよいのです。」
というお話だった。
神仏習合の修験道のお坊さんらしいお話だったが、そのお話を聞いたとき、私には思いおこす出来事があった。
私が毎日お参りをする近所の神社には、人があまり寄りつかない。
一体、私以外に、社務所もなくふだんは神職もいないこの神社にお参りにくる人はいるのだろうかとけげんに思い、お手水の柄杓をちょっと変わった置き方で置いておくが、次の日に行っても、誰も柄杓を使った気配がなく、私が置いたままの様子で置いてある。
秋祭りの時だけ町の人たちがたくさん集まってくるが、祭りの時に、本殿の御扉が開帳されていたので中をのぞいたら、ご神体はただの伊勢神宮の古びたお札だった。
しかし、私は、その小さな氏神様をお参りするとき、伊勢神宮や、熊野の大きな神社をお参りするときと同じ厳粛な空気を感じる。
ああ、伊勢や熊野で見たものは、ちゃんとここにあるじゃないかと思わされる。
どんな有名神社よりも、私にとって大切に思われるのは、私が長年暮らしてきたこの町の、この神社である。
その神社には、樹齢何百年もの、古くて立派な椎の木のご神木がある。
根の形といい、枝の張り具合といい、貫禄があって、その佇まいが実にかっこいい。
私はその木が大好きなので、毎日その神社を訪れる。
その椎の木が落としたドングリを拾って御守りにしている。

そんなある日のことだった。
いつものように神社にお参りにいくと、ご神木の根元に白いコンビニ袋のようなものが転がっている。
ゴミかと思って拾おうとしたら、うずくまって動かない一羽の鳥だった。
最近、ペットとして人気のヒメウズラだという。
誰かに捨てられたのか、逃げ出したのかわからないけれど、猫やカラスに食われてはいけないので、連れてかえり、交番に届けたが、結局、飼い主は現れず、晴れて我が家の鳥となった。

ときどき、夜中に、けたたましい声でなく。(動画は他の方のもの)
ヒメウズラを手にとって、その体温を手のひらに感じるとき、私は、なぜか、蔵王権現に面したときと同じような厳粛な気持ちになる。
「みなさんは、ふだん、それぞれ、ご先祖様をおがんだり、氏神様を大切にしていらっしゃることでしょう。みなさんが今日、御覧になった蔵王権現も、みなさんが、ふだん大切になさっているものとつながっているのですよ。だからみなさんがふだん大切にされてこられたものを、そのまま大切にされていかれれば、それでよいのです。」
というお話だった。
神仏習合の修験道のお坊さんらしいお話だったが、そのお話を聞いたとき、私には思いおこす出来事があった。
私が毎日お参りをする近所の神社には、人があまり寄りつかない。
一体、私以外に、社務所もなくふだんは神職もいないこの神社にお参りにくる人はいるのだろうかとけげんに思い、お手水の柄杓をちょっと変わった置き方で置いておくが、次の日に行っても、誰も柄杓を使った気配がなく、私が置いたままの様子で置いてある。
秋祭りの時だけ町の人たちがたくさん集まってくるが、祭りの時に、本殿の御扉が開帳されていたので中をのぞいたら、ご神体はただの伊勢神宮の古びたお札だった。
しかし、私は、その小さな氏神様をお参りするとき、伊勢神宮や、熊野の大きな神社をお参りするときと同じ厳粛な空気を感じる。
ああ、伊勢や熊野で見たものは、ちゃんとここにあるじゃないかと思わされる。
どんな有名神社よりも、私にとって大切に思われるのは、私が長年暮らしてきたこの町の、この神社である。
その神社には、樹齢何百年もの、古くて立派な椎の木のご神木がある。
根の形といい、枝の張り具合といい、貫禄があって、その佇まいが実にかっこいい。
私はその木が大好きなので、毎日その神社を訪れる。
その椎の木が落としたドングリを拾って御守りにしている。

そんなある日のことだった。
いつものように神社にお参りにいくと、ご神木の根元に白いコンビニ袋のようなものが転がっている。
ゴミかと思って拾おうとしたら、うずくまって動かない一羽の鳥だった。
最近、ペットとして人気のヒメウズラだという。
誰かに捨てられたのか、逃げ出したのかわからないけれど、猫やカラスに食われてはいけないので、連れてかえり、交番に届けたが、結局、飼い主は現れず、晴れて我が家の鳥となった。

ときどき、夜中に、けたたましい声でなく。(動画は他の方のもの)
ヒメウズラを手にとって、その体温を手のひらに感じるとき、私は、なぜか、蔵王権現に面したときと同じような厳粛な気持ちになる。
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