夏の思い出(2)
熊野と外国人。
私にとっては二日間の古道歩きが肉体の限界であり、その後熊野を離れたが、スペイン人の青年は、熊野に留まり、熊野本宮から那智大社に至る「小雲取越・大雲取越」と呼ばれるさらに険しい二日間の行程を歩いた。

作家の神坂次郎氏は、「小雲取越・大雲取越」や熊野古道全般の過酷さについて、次のように記している。
延べ四日間の古道歩きを敢行したスペイン人青年の健脚ぶりにも驚かされるが、上には上がいるもので、彼が「小雲取越・大雲取越」の中継地である小口の宿で出会ったカナダ人の女性は、(写真を見せてもらったところ、赤毛のアンを彷彿とさせるような天真爛漫な風貌の華奢な二十代の女性であったが)、高野山から熊野本宮に至る「小辺路」(こへち)という、「大峯奥駈道」(おおみねおくがけみち)という修験の道をのぞけば熊野古道の中で最も険しいと言われる三、四日かかる行程を歩き、その後、私たちが歩いたのと同じ滝尻王子から熊野本宮への二日間の道のりを歩き、さらに「小雲取越・大雲取越」という難路を歩いていた途中で、彼と出会ったのだという。
外国人の旅行者は、旅行中の荷物を全て背負った上で山歩きを行うので、私たち日本人よりもはるかに過酷な古道歩きとなるのだが、熊野は、日本人にはあまり顧みられていない一方、多くの外国人旅行者を惹きつけている。
参考記事:
海外「日本で神の存在を感じた」 熊野古道の神秘的な雰囲気が外国人を魅了
下は、三重県尾鷲市にある熊野古道センターに掲げられている、新宮市出身の作家、中上健次の言葉。

スペイン人の青年は、その後、我が家に立ち寄って三日ほど滞在し鎌倉円覚寺の暁天座禅会に参加したりした後、スペインに帰っていったが、交流はその後も続いており、熊野を歩いた経験について時々語り合っている。これからも、熊野について語らい続けるのだろうと思う。
スペインに帰国後、彼は私にこう打ち明けた。
「日本にいるとき、君には言わなかったことがあるのだけれど、那智山を後にして勝浦の港町に降りてきたとき、そこが小さな町であったにも関わらず、熊野の森を去って人界に戻ってきたことについて、涙が溢れてしかたがなかったんだ。熊野には何か得体の知れない特別なものがあるよ。」
また、熊野を歩いた人間の共通の見解として、英訳された下の動画は、美化や誇張なく熊野を正確に表現していると私たちは互いにうなずきあった。

作家の神坂次郎氏は、「小雲取越・大雲取越」や熊野古道全般の過酷さについて、次のように記している。
那智と本宮を結ぶ大雲取、小雲取越えの山中三十五キロの嶮しさは、数々の記録にもあるが、今から七百七十六年前、後鳥羽院の熊野御幸に随従した当代の歌人、藤原定家がその中で、
<終日険岨を超す、いまだかくの如きの(苦しき)事に遇わず、雲トリ紫金峰は掌を立つが如し……前後を覚えず……この路の嶮難は大行路に過ぐ、(疲れのあまり)くまなく記すあたわず>
と悲鳴をあげているのをみても、難渋の程が想像できる。
この熊野行は、よほど定家の骨身に応えたらしい。もっとも定家は、雲取越ばかりではなく、熊野一の鳥居のある藤白坂でも、
<道崔嵬、ほとんど恐れ有り>
と声をうわずらせ、以来行く先々の山坂で、
<こころ喪きごとく、さらになす方もなし>
<嶮岨の遠路、無力、きわめてすべなし>
と頭を抱え込んでいる。
とはいえ、定家が格別に足弱であったわけではない。熊野道が嶮しすぎるのである。迂回を知らない熊野路は、目的に向かって一筋にすすむ。たとえそこに山があり川ががあろうと頓着はしない。道はひたすら一直線に山嶺に駆け上がり谷底に駆け下る。その山の数も一つや二つではない。京からの行程、往復三十日近い道中、ひしめくような山また山を越え……まるで巨大なノコギリの歯の連なりを蟻たちが踏み越え踏み越えしていくような、そんな連続なのだから堪ったものではない。 事実、気息えんえん、声をあげて泣きたいような難所が今も幾つか残っている。
(出典: 神坂次郎『熊野路』)
延べ四日間の古道歩きを敢行したスペイン人青年の健脚ぶりにも驚かされるが、上には上がいるもので、彼が「小雲取越・大雲取越」の中継地である小口の宿で出会ったカナダ人の女性は、(写真を見せてもらったところ、赤毛のアンを彷彿とさせるような天真爛漫な風貌の華奢な二十代の女性であったが)、高野山から熊野本宮に至る「小辺路」(こへち)という、「大峯奥駈道」(おおみねおくがけみち)という修験の道をのぞけば熊野古道の中で最も険しいと言われる三、四日かかる行程を歩き、その後、私たちが歩いたのと同じ滝尻王子から熊野本宮への二日間の道のりを歩き、さらに「小雲取越・大雲取越」という難路を歩いていた途中で、彼と出会ったのだという。
外国人の旅行者は、旅行中の荷物を全て背負った上で山歩きを行うので、私たち日本人よりもはるかに過酷な古道歩きとなるのだが、熊野は、日本人にはあまり顧みられていない一方、多くの外国人旅行者を惹きつけている。
参考記事:
海外「日本で神の存在を感じた」 熊野古道の神秘的な雰囲気が外国人を魅了
下は、三重県尾鷲市にある熊野古道センターに掲げられている、新宮市出身の作家、中上健次の言葉。

熊野はまた日本中にどこにでもあり、さらには日本を越えて世界中に存在するとも思っている。私が本の題にした鳳仙花がロスアンゼルスの花屋にあるように熊野はあり、(中略)、カンボジアにも熊野はあると、今思うのだ。正統には異端、生には死、正常には倒錯、熊野はいくつものマイナスのカードを集めて膨れ上がって根をのばし、真夏の昼にこれほどより赤いものが他にあうかというほどの、急いで火焔のような深紅の花をつける鳳仙花に似ている。アジアからの光を浴びた熊野原人としか形容のない者らが、眩しい日の中で爆発的に生きる姿を描きたいものだと思っている。
(出典: 中上健次『熊野・アジア・わが文学』)
スペイン人の青年は、その後、我が家に立ち寄って三日ほど滞在し鎌倉円覚寺の暁天座禅会に参加したりした後、スペインに帰っていったが、交流はその後も続いており、熊野を歩いた経験について時々語り合っている。これからも、熊野について語らい続けるのだろうと思う。
スペインに帰国後、彼は私にこう打ち明けた。
「日本にいるとき、君には言わなかったことがあるのだけれど、那智山を後にして勝浦の港町に降りてきたとき、そこが小さな町であったにも関わらず、熊野の森を去って人界に戻ってきたことについて、涙が溢れてしかたがなかったんだ。熊野には何か得体の知れない特別なものがあるよ。」
また、熊野を歩いた人間の共通の見解として、英訳された下の動画は、美化や誇張なく熊野を正確に表現していると私たちは互いにうなずきあった。
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