沖縄と熊野
中沢新一と南方熊楠(20)
本シリーズは、「中沢新一と南方熊楠」と銘打ちながら、さだめし「熊野学」の様相を示してきています。
私は熊野について考え、そして語らずにはいられません。
熊野は、現代の日本人に重要なメッセージを語りかけているからです。
熊野は、さまざまな仕方で、熊野以外の日本の様々な土地とも深いネットワークで結ばれています。
その一例として、熊野と沖縄には深いつながりがあります。
琉球八社(波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・安里八幡宮・天久宮・金武宮)という、琉球王朝が古くから大切に祀ってきた八つの主要な神社があるのですが、この七つまでもが熊野権現を勧請して建てられています。
慶安元年(1648年)刊の『琉球神道記』に次のように記されています。
琉球八社の筆頭であり、沖縄総鎮守とされる波上宮には、次のような創建伝説があります。
普天間基地に隣接して立つ普天満宮も琉球八社の一つですが、熊野権現が勧請されたのは尚金福王から尚泰久王の時代の15世紀中ばにまでさかのぼるといわれています。
なぜ、琉球王国が古くから熊野権現を祀っていたのか。
さまざまな論考が成り立ちうる大変興味深いテーマですが、端的に言えば、熊野詣にその本質の一端が現れている日本文明と、琉球文明の間に、何か通底するものがあったからだと考えられます。
日本本土と、琉球は、明らかに同じ文明を共有していました。
言葉の深い意味において、日本本土の人びとと沖縄の人びとは同胞です。
熊野という中・近世の聖地を破壊した明治体制が、熊野権現を祀っていた琉球王朝にも終わりをもたらしたのは、象徴的な出来事でした。
熊野を知ることは、沖縄のようなローカルな土地や文化を、グローバリズムの潮流の中で、また文明による圧政の中で、どのように守っていくべきかという重要な問いに対して、大きなヒントを与えてくれます。
熊野を知ることは、近現代の日本の歪みを知ることにつながるからです。
日本の近代は、熊野を否定し、そして破壊しました。
それに抗ったのが南方熊楠という男でした。
今は、逆に、熊野によって、近代の日本が否定され、克服されるべき時が来たのです。
その意味で、熊野とは、言葉の深い意味での、日本にとっての蘇りの土地なのです。
(追記)
琉球と熊野を結びつける要因の一つに、黒潮の存在も考えられます。
熊野三山の一つ、熊野速玉大社では、梛木(ナギ)という、日本の本州南岸、四国、九州、南西諸島、台湾に固有の、針葉樹でありながら広葉樹のように広い葉をもつ特徴のある樹木がご神木とされています。
梛木の分布は黒潮の流れる海域の沿岸部に一致し、もともとは海南島や台湾で自生していた木が、黒潮にのって日本列島に伝わっていったものと考えられます。
黒潮の流域に位置し、本州における梛木の自生地の北限とされる伊豆半島にある伊豆山神社でも、熊野と同様、梛木がご神木とされています。
また、奈良の春日大社の社叢にも、奈良時代や平安時代に植樹されたといわれる梛木の群生があります。
梛木は黒潮文化圏を象徴する植物であり、琉球の人びとが古くから熊野という土地に共感を寄せたことの理由の一つには、黒潮の存在も何か関係しているのかもしれません。
沖縄の本土復帰に際して、熊野速玉大社のご神木の種から育てられた梛木の苗木が沖縄の小学校に送られ、今では立派な木に成長しているとのことです。(出典)
私は熊野について考え、そして語らずにはいられません。
熊野は、現代の日本人に重要なメッセージを語りかけているからです。
熊野は、さまざまな仕方で、熊野以外の日本の様々な土地とも深いネットワークで結ばれています。
その一例として、熊野と沖縄には深いつながりがあります。
琉球八社(波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・安里八幡宮・天久宮・金武宮)という、琉球王朝が古くから大切に祀ってきた八つの主要な神社があるのですが、この七つまでもが熊野権現を勧請して建てられています。
慶安元年(1648年)刊の『琉球神道記』に次のように記されています。
当国大社 七處アリ、六處ハ倭ノ熊野権現ナリ一處ハ八幡大菩薩也
琉球八社の筆頭であり、沖縄総鎮守とされる波上宮には、次のような創建伝説があります。
往昔、南風原に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていたが、ある日、彼は海浜で不思議な"ものを言う石"を得た。以後、彼はこの石に祈って豊漁を得ることが出来た。この石は、光を放つ霊石で彼は大層大切にしていた。このことを知った諸神がこの霊石を奪わんとしたが里主は逃れて波上山《現在の波上宮御鎮座地で花城と(はなぐすく)も呼んだ》に至った時に神託(神のお告げ)があった。即ち、「吾は熊野(くまの)権現也(ごんげんなり)この地に社を建てまつれ、然(しか)らば国家を鎮護すべし」と。そこで里主はこのことを王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く祀った。 (出典: 波上宮公式サイト)
普天間基地に隣接して立つ普天満宮も琉球八社の一つですが、熊野権現が勧請されたのは尚金福王から尚泰久王の時代の15世紀中ばにまでさかのぼるといわれています。
なぜ、琉球王国が古くから熊野権現を祀っていたのか。
さまざまな論考が成り立ちうる大変興味深いテーマですが、端的に言えば、熊野詣にその本質の一端が現れている日本文明と、琉球文明の間に、何か通底するものがあったからだと考えられます。
日本本土と、琉球は、明らかに同じ文明を共有していました。
言葉の深い意味において、日本本土の人びとと沖縄の人びとは同胞です。
熊野という中・近世の聖地を破壊した明治体制が、熊野権現を祀っていた琉球王朝にも終わりをもたらしたのは、象徴的な出来事でした。
熊野を知ることは、沖縄のようなローカルな土地や文化を、グローバリズムの潮流の中で、また文明による圧政の中で、どのように守っていくべきかという重要な問いに対して、大きなヒントを与えてくれます。
熊野を知ることは、近現代の日本の歪みを知ることにつながるからです。
日本の近代は、熊野を否定し、そして破壊しました。
それに抗ったのが南方熊楠という男でした。
今は、逆に、熊野によって、近代の日本が否定され、克服されるべき時が来たのです。
その意味で、熊野とは、言葉の深い意味での、日本にとっての蘇りの土地なのです。
(追記)
琉球と熊野を結びつける要因の一つに、黒潮の存在も考えられます。
熊野三山の一つ、熊野速玉大社では、梛木(ナギ)という、日本の本州南岸、四国、九州、南西諸島、台湾に固有の、針葉樹でありながら広葉樹のように広い葉をもつ特徴のある樹木がご神木とされています。
梛木の分布は黒潮の流れる海域の沿岸部に一致し、もともとは海南島や台湾で自生していた木が、黒潮にのって日本列島に伝わっていったものと考えられます。
黒潮の流域に位置し、本州における梛木の自生地の北限とされる伊豆半島にある伊豆山神社でも、熊野と同様、梛木がご神木とされています。
また、奈良の春日大社の社叢にも、奈良時代や平安時代に植樹されたといわれる梛木の群生があります。
梛木は黒潮文化圏を象徴する植物であり、琉球の人びとが古くから熊野という土地に共感を寄せたことの理由の一つには、黒潮の存在も何か関係しているのかもしれません。
沖縄の本土復帰に際して、熊野速玉大社のご神木の種から育てられた梛木の苗木が沖縄の小学校に送られ、今では立派な木に成長しているとのことです。(出典)
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