グローバルとローカルの関係を解く日本史の結節点

中沢新一と南方熊楠(19)
1927年和歌山県に生まれ、陸軍航空学校卒業後、 鹿児島県知覧の特攻基地で勤務した経歴をもち、特攻隊を描いた『今日われ生きてあり』という作品で知られる作家の神坂次郎氏は、『縛られた巨人―南方熊楠の生涯』のような、故郷和歌山を題材にした作品群でも知られています。

そのような作品群の一つに、『藤原定家の熊野御幸』があります。

この作品は、建仁元年(1201年)の後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した歌人藤原定家が書き残した「後鳥羽院熊野御幸記」の記述に沿いながら、戦後二十年余、神坂氏が土木技師として熊野で働いた経験から得た土地勘をもとに、熊野に赴く藤原定家の苦難の旅路を生き生きと立体的に再現した作品です。

この本のあとがきに、今年の3月に逝去されたばかりの、日本古代史研究の第一人者であられた京都大学名誉教授の上田正昭氏による下のような興味深い書評が紹介されています。

熊野三山はありふれた「聖地」ではなかった。「浄不浄をとわず、貴賤にかかわらず、男女をとわぬ」、山上他界と海上他界の「隠国(こもりく)」であった。わたしなどがローカルでグローバルな地域学の構築は、熊野でこそ実現可能と考える大きな理由もそこにある。

(出典: 産経新聞1992年4月16日)


まだ「グローバル」という言葉の持つ毒がよく知られていなかった、冷戦終結直後の90年代の始めに書かれたこの書評の中で、上田正昭氏は、熊野という土地が、強いローカル性を放ちながら、同時に、すべての人を分け隔てなく受け入れてきたグローバル性を併せ持つ点に着目しているわけですが、WJFプロジェクトも、「グローバリズムと神道」という記事のカテゴリーの中で展開してきた様々な論考を通して、上田正昭氏とは異なる文脈において、グローバリズムとローカリズム(ナショナリズム)の関係性という、単純な二項対立では捉えきれない複雑な問題を解く鍵をもつ土地として、熊野に着目してきました。

なぜ、安倍政権や自民党政治や日本会議や神社本庁に顕著に見られるように、日本のナショナリズムは安易にグローバリズムに傾斜していこうとするのか。

WJFプロジェクトが「天神的原理」とも呼ぶこの傾向性には、単純に彼らを「似非右翼」と呼ぶだけでは片付けることのできない、明治維新や、明治維新がその原型と見なした白鳳時代にまでさかのぼる、歴史的背景が存在することを、当ブログは、これまでいくつかの記事の中で論じてきました。

また、「文明」(文明とは本来的にグローバルなものです)に一方向的に傾斜していこうとする、日本のナショナリズムが抱えるこの傾向性(天神的原理)に対しては、単に、「文明」に背を向けて、国内の既存の伝統の中に閉塞しようとする傾向性(地祇的原理)をもって置き換えればよいということではないことも論じました。

大切なのは、「文明」と「非・文明」(自然)との間を往還するルートを構築することであり、一見相反するかに見える二つのものを切り結ぼうとするところにこそ日本文明の本質が存在することを、これまで繰り返し述べてきました。

記紀における国譲り神話や、日本書紀崇神天皇条における神祇祭祀の創始に関する記述もまた、「天神的原理」(グローバリズム)と「地祇的原理」(ローカリズム)の併存と融和の大切さを暗示しています。

この往還のルートが破壊されるときに、日本文明の本質も破壊され、日本にとって大きな危険をはらんだ、様々な形の誤った政治思想が、日本の国内に横行することになります。

それが明治維新以降、現代に至るまで、実際に起き続けていることです。

現在の日本で、大手をふるいながら日本を破滅的な方向に導こうとしている誤った保守思想の源流は、明治維新による日本の近代化がもたらした歪みにあります。

その歪みが、敗戦を経ても、現代に至るまでなお、十分に修正されないまま残存しており、そのことが、現在の政治に様々な行き詰まりをもたらしているのです。

明治体制は、神仏習合の絆をほどき、修験道を禁じ、熊野の森の伐採が引き起こした熊野川の氾濫によって、熊野本宮大斎原の古い社を根こそぎにし、神社合祀令によって、名も知れぬ神々を祀った熊野古道上の数々の歴史ある王子社を廃止し、熊野古道を廃れさせました。

熊野古道は、「文明」と「自然」とを結ぶ往還のルートが、歴史の中にもっとも象徴的な形として姿を現したものに他なりませんから、熊野古道の破壊に象徴される、日本の近代化がもたらした歪みの本質は、「文明」と「自然」を結ぶ、日本人が長い時間をかけて様々な領域で切り開いてきた往還のルートを破壊したことにあります。

ならば、現在の政治上の問題を解決するための答えは、単に政治という表層のレベルに留まって、政策の技術的な是非を論じればよいのではなく、もっと根本的なところにその原因をさぐりもとめて、「文明」と「自然」を結ぶ往還のルートを、私たちが様々な生活の場面で具体的な形で再生させていくことにあります。

神坂次郎氏の美しい文章を通して、今一度、熊野という土地の歴史的意義を概観しておきたいと思います。

芭蕉は、七部集、『ひさご』のなかで、熊野にあこがれる上臈の心を、

「熊野みたきと泣き給ひけり」

と詠んでいる。

人生に疲れ、絶望したとき、中世の人びとはいつも心に熊野を念じた。

熊野。



今日の都から往復およそ一ヶ月、百七十余里。下鳥羽から船に乗って淀川をくだり、摂津国渡辺に上陸。ここを南にいくと熊野街道の起点、窪津王子。

道はここから一路、和泉の海べりを南下し、信太、井ノ口、麻生河、厩戸と、王子をくだり、紀伊国の国界、雄ノ山峠越えて紀ノ川をわたり、藤白峠をすぎて有田、湯浅、御坊、印南の海明かりのする道を田辺にむかう。

熊野の入り口、口熊野といわれた田辺から先は、熊野本宮に向かう山中の道、中辺路を分け入る。本宮からは熊野川を船でくだり、新宮、那智と熊野三所権現をめぐって、那智の背後にそびえる妙法山にのぼり、熊野中をくぐるような大雲取山の険路を越えて、ふたたび本宮に出、中辺路往来を通って都へ帰っていく、という順路になっている。



「峨々たる嶺のたかきをば、神徳のたかきに喩え、嶮々たる谷のふかきをば、弘誓のふかきに准へて、雲を分けてのぼり、露をしのいで下る」(康頼祝詞『平家物語』)

人びとはそんな熊野の、三千六百峰の山塊をよじのぼり、谷をくだり、足裏に血をにじませ僻遠の彼方にある熊野三山の聖地を目指した。



(中略)

その熊野は、かつて日本の中の異邦であった。



もともと熊野は、温暖と多雨が結びついて、山が深く樹林が天をおおってくろぐろと生い茂り、自然の条件そのものが幽暗な感じをひきおこすように揃っていて、にんげんが死んでから行く冥府のような雰囲気がたちこめていた。



そんなところから、太古からここは死者の国であると考えられ、熊野山塊にはそれらの幽魂が充満しているとみられていた。熊野は隠国(こもりく)、隠野(こもりの)の意であり、祖霊のこもりなす根の国、女神イザナミが赴いた黄泉の国であった。



仏教が伝来すると、この薄気味の悪い、にんげんの世界の外の、おどろおどろと晦冥につつまれた熊野の地の、山中他界などの原始的な信仰や思想があったところへ、海上他界の補陀落信仰が加わり、さらに神道でも仏教でもない第三の宗教、熊野修験とが混沌とした重なりをみせて、一つの浄土思想をかたちづくっていた。そんな熊野を、この世の十方浄土の地と観じた皇族や貴族たちが、聖地へのあこがれを掻きたてながら、現世極楽にいたる険しい山谷を踏み分けてのぼってきた。



熊野とは地の涯、隈野であり、那智は難地の謂である。が、難行苦行の旅だからこそ、一切の在行が消滅するという信仰になり得たのであろう。



そしてその苦行のゆえにこそ、蒼海を緋に染めて沈んでいく荘厳な夕陽や、昼なお暗い原生林の彼方に、忽然とそびえる岸壁から飛沫をあげて轟々と落下する滝のひびきに、遥か浄土に辿りついたという法悦をおぼえたのであろう。



「山川千里を過ぎて、遂に奉拝す、感涙禁じ難し」

と、後鳥羽上皇の熊野御幸に随従した歌人、藤原定家は、その感動を『明月記』(熊野御幸随行時の部分が「後鳥羽印熊野御幸記」として知られる)に記している。

熊野三山が歴史の上に名を高めてくるのは、平安の中期から鎌倉時代にかけて頻繁に行われたこの熊野御幸によってである。



(中略)

これらの御幸のなかには、千近くの人馬を従え、一日の糧料(食糧)十六石〜四十九石におよんだ一行もあったという。

上皇や女院の熊野御幸の時代が幕を閉じた後も、熊野詣の旅は時の流れとともに武士、庶民へと拡がりをみせていった。それは、一種、狂熱的な信仰ぶりであった。江戸中期の享保元年(1716)六月二十四日から六日間、田辺の旅宿に泊まった参詣人の数、四千七百七十六人、一日八百人というおびただしい熊野道者の数である。



これらの、蟻の行列のように陸続と熊野への道を踏み越えてやってくる人びとの姿を、日本語とポルトガル語の辞書、『日葡辞書』(慶長八年・1603)は、

「ありのくまのまゐりほどつづいたよ」

と記し、小瀬甫庵の『太閤記』の中でも、山名豊国の鳥取城を隙間なく包囲した秀吉軍団のひしめきを、

「蟻の熊野参りなる如く」

であったと書いている。

しかし、当時の庶民の熊野への旅は、上皇や貴族たちの派手やかな御幸とちがって、飢餓と野宿と生命の危険にさらされ苦しみをきわめたものであった。



藤原経房の日記「吉記」でも、熊野への途次、行く先ざきで飢えに迫られた人びとに食物を施したが、その数があまりに多かったので書きとめることができなかったと述懐し、藤原宗忠もまた、飢餓に瀕した盲人に食を与え、藤原定家の『明月記』も「有盲如懐子」と乳飲み子を抱いた盲女のことを書きとめている。常人でさえただならぬ熊野行に、こうした盲人や業病に肉体をむしばまれた人びとの殆どは、けわしい山路や坂の途中で、燃えつきた生命の灯を、ひっそりと消していったにちがいない。



それにしても、なんという山また山の道を昔の人びとは歩いていったのであろう。

そんな地の崖の熊野三山が、現代では想像もできないくらい強烈な信仰をあつめたのは、熊野大権現が、

「浄不浄をとわず、貴賤にかかわらず、男女をとわず」



受け入れてくれたからであろう。そして、熊野証誠殿の前にぬかずけば、広大無辺の慈悲によって、汚穢にまみれ俗世に傷ついたわが身も、たちまち決定往生して生まれかわり、健やかで倖せ多い余生が約束される、と信じたからであろう。



その信仰は「道のほとりに飢え死ぬるもの数知れず」といった中世の地獄をみた人びとの心を、はげしく揺りうごかした。人びとはみな十方浄土の熊野の聖域を、灼けるような思いで凝視めた。



「南無、日本第一霊験熊野三所大権現利生を給え」

(出典: 神坂次郎『藤原定家の熊野御幸』)


上皇も、貴族も、女も、貧民も、盲人も、ハンセン氏病患者も、食べ物を分かち合いながら、互いに支え合いながら命がけで這いつくばるように目指した熊野。

国民的作家として知られる司馬遼太郎氏が、生涯でただ一つ別荘を建てるために選んだ土地も、熊野の古座街道でした。

熊野こそは、「文明」(グローバル)と「自然」(ローカル)とを切り結ぶ、日本史上の極めて重要な結節点であり、あらゆる日本人にとっての原点であるといっても過言ではありません。
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