粘菌と熊野古道
中沢新一と南方熊楠(18)
同じタイトルが続くと記事の内容がわかりにくいので、タイトルと副題を逆にします。
日本の学校制度が肌に合わなかった南方熊楠は、十九歳の時に渡米してアメリカで遊学し、二十五歳の時に渡英して大英博物館で学びつつ、権威ある科学雑誌「ネイチャー」誌に寄稿する生活を送っていましたが、大英博物館で暴力事件を起こして出入禁止の処分を受け、三十三歳の時に帰国し、主に粘菌(変形菌)研究のために那智山中で隠遁生活を送った後、和歌山県田辺市に居を構え、引き続き、熊野山中での粘菌研究に携わりました。
粘菌(変形菌)とは、湿気の多いときには、動物のように他の生物を捕食しながらゆっくりと移動し、空気が乾燥すると、今度は植物のように一カ所にとどまって動かなくなり、茎を伸ばして先端に胞子嚢を形成して胞子を飛ばす、動物にも植物にも分類ができない、森の中の奇妙な生き物のことです。
南方熊楠は、粘菌が、実定的な形をもつ「A」と、明確な形をもたない「非・A」という、二つの状態の間を自由に往来する生き物として、強い関心を寄せたのでした。

粘菌という生物が、南方熊楠の生き方や思考法をそのまま写し取ったかのような生き物である点に、南方熊楠は強い共感を寄せたものと思われます。
南方熊楠は粘菌について次のようにも記しています。
南方熊楠は、世間の人々は、死んだように動かない植物状態の粘菌を見ると「粘菌が生えた」と生き物であるかのようにありがたがり、逆に、明確な形をとらず自由に動き回る動物状態の粘菌の姿をみると、痰のように役に立たないものとして蔑視するといって、実定的な形をもつ「A」に捕らわれがちな人々のものの見方を揶揄しています。
南方熊楠は、ここで、生涯、明確な社会的地位を求めることなく、在野の自由奔放な「原形体」として振る舞い続けた自分の姿を粘菌になぞらえつつ、保身のために社会的地位ばかりをありがたがる世間の人々の価値観を転倒したものとして暗に批判しているわけですが、これまで繰り返しお話してきましたように、粘菌のように、明確な形のある状態「A」と、形のない潜在性の状態「非・A」の間を自由に往還してみせたのは、熊楠一人ではなく、皇族や貴族、武士や庶民に至る、過去の多くの日本人の生き方が、まさに、粘菌的でした。
熊野古道こそは、律令格式によって高度に制度化され階層化された実定的な都の世界「A」(京都)と、律令格式によって制度化される以前の原初的な自然の世界「非・A」(熊野)をつなぐ、歴史の中に姿をあらわした往還のルートに他なりません。
「A」と「非・A」をつなぐという、この記事のシリーズで展開しているお話は、決して抽象的な哲学めいたお話なのではなく、日本人にとってはきわめて具体的なことがらでした。
蟻の熊野詣と言いますが、まさに蟻が甘い物に引き寄せられるように、歴史のある一時期、日本人のDNAが、熊野という土地に強く感応し、引き寄せられていくという不思議な現象が起きました。
下の動画は、平安時代後期に上皇を初めとする都人たちが、京都と熊野の間を何度も往復した、熊野古道中辺路の様子を撮影したものです。白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回 後鳥羽上皇は28回、後白河法皇にいたっては34回もこの道を往復したわけですが、この道の険しさを見るごとに、どうして当時の都の貴人たちは、何週間もかかる旅の不便や労苦も厭わず、このような険しい山中に何度も何度も足を運ぶことになったのか、歴史の不思議さ、日本文明の不思議さ、日本人の生き方の不思議さに心を打たれずにはいられません。
日本人の生き方が示すこの不思議さは、粘菌という生き物の生態が示す不思議さに、相通じるものがあります。
粘菌が、動物とも植物とも判別がつかないように、日本人もまた、単なる「文明」に属する人々なのか、単なる「自然」に属する人々なのか、判別がつかないハイブリッドな生態をもつ人々だからです。
昨今の日本人は、粘菌的、媒介的なあり方を捨てて、動物か、植物か、いずれか一つの生態だけをもっぱら選び取り、二つの立場に分かれて互いに相争うようにも見受けられますが、そこから生じる、右翼と左翼の不毛なあらそいを脱して、日本文明の本質にふさわしい政治のあり方が確立されるために必要な鍵は、日本人が再び、伝統的な、粘菌的な生き方を取り戻すことにあります。
日本の学校制度が肌に合わなかった南方熊楠は、十九歳の時に渡米してアメリカで遊学し、二十五歳の時に渡英して大英博物館で学びつつ、権威ある科学雑誌「ネイチャー」誌に寄稿する生活を送っていましたが、大英博物館で暴力事件を起こして出入禁止の処分を受け、三十三歳の時に帰国し、主に粘菌(変形菌)研究のために那智山中で隠遁生活を送った後、和歌山県田辺市に居を構え、引き続き、熊野山中での粘菌研究に携わりました。
粘菌(変形菌)とは、湿気の多いときには、動物のように他の生物を捕食しながらゆっくりと移動し、空気が乾燥すると、今度は植物のように一カ所にとどまって動かなくなり、茎を伸ばして先端に胞子嚢を形成して胞子を飛ばす、動物にも植物にも分類ができない、森の中の奇妙な生き物のことです。
粘菌は、動植物いずれともつかぬ奇態の生物にて、英国のランカスター教授などは、この物最初他の星界よりこの地に墜ち来たり動植物の原となりしならん、と申す。生死の現象、霊魂等のことに関し、小生過ぐる十四、五年この物を研究籠もりあり。
(出典: 南方熊楠「柳田国男宛書簡」)
南方熊楠は、粘菌が、実定的な形をもつ「A」と、明確な形をもたない「非・A」という、二つの状態の間を自由に往来する生き物として、強い関心を寄せたのでした。

南方熊楠の見ていた世界は、潜在性の状態と現実化された状態との間を、ループ状につないでその間を往復しながら進行していくのです。しかも潜在性の状態にある空間では、あらゆるものが多様な方向に広がり、つながりあい、分岐や切断や再結合をおこなっています。いったいこんな熊楠的世界に通用する「論理・象徴界」などは存在するのでしょうか。
(出典: 中沢新一『熊楠の星の時間』)
粘菌という生物が、南方熊楠の生き方や思考法をそのまま写し取ったかのような生き物である点に、南方熊楠は強い共感を寄せたものと思われます。
南方熊楠は粘菌について次のようにも記しています。
故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰様の半流動体と蔑視さるるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人間の見解がまるで間違いおる。
(出典: 南方熊楠「岩田準一宛書簡」)
南方熊楠は、世間の人々は、死んだように動かない植物状態の粘菌を見ると「粘菌が生えた」と生き物であるかのようにありがたがり、逆に、明確な形をとらず自由に動き回る動物状態の粘菌の姿をみると、痰のように役に立たないものとして蔑視するといって、実定的な形をもつ「A」に捕らわれがちな人々のものの見方を揶揄しています。
南方熊楠は、ここで、生涯、明確な社会的地位を求めることなく、在野の自由奔放な「原形体」として振る舞い続けた自分の姿を粘菌になぞらえつつ、保身のために社会的地位ばかりをありがたがる世間の人々の価値観を転倒したものとして暗に批判しているわけですが、これまで繰り返しお話してきましたように、粘菌のように、明確な形のある状態「A」と、形のない潜在性の状態「非・A」の間を自由に往還してみせたのは、熊楠一人ではなく、皇族や貴族、武士や庶民に至る、過去の多くの日本人の生き方が、まさに、粘菌的でした。
熊野古道こそは、律令格式によって高度に制度化され階層化された実定的な都の世界「A」(京都)と、律令格式によって制度化される以前の原初的な自然の世界「非・A」(熊野)をつなぐ、歴史の中に姿をあらわした往還のルートに他なりません。
「A」と「非・A」をつなぐという、この記事のシリーズで展開しているお話は、決して抽象的な哲学めいたお話なのではなく、日本人にとってはきわめて具体的なことがらでした。
蟻の熊野詣と言いますが、まさに蟻が甘い物に引き寄せられるように、歴史のある一時期、日本人のDNAが、熊野という土地に強く感応し、引き寄せられていくという不思議な現象が起きました。
下の動画は、平安時代後期に上皇を初めとする都人たちが、京都と熊野の間を何度も往復した、熊野古道中辺路の様子を撮影したものです。白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回 後鳥羽上皇は28回、後白河法皇にいたっては34回もこの道を往復したわけですが、この道の険しさを見るごとに、どうして当時の都の貴人たちは、何週間もかかる旅の不便や労苦も厭わず、このような険しい山中に何度も何度も足を運ぶことになったのか、歴史の不思議さ、日本文明の不思議さ、日本人の生き方の不思議さに心を打たれずにはいられません。
日本人の生き方が示すこの不思議さは、粘菌という生き物の生態が示す不思議さに、相通じるものがあります。
粘菌が、動物とも植物とも判別がつかないように、日本人もまた、単なる「文明」に属する人々なのか、単なる「自然」に属する人々なのか、判別がつかないハイブリッドな生態をもつ人々だからです。
昨今の日本人は、粘菌的、媒介的なあり方を捨てて、動物か、植物か、いずれか一つの生態だけをもっぱら選び取り、二つの立場に分かれて互いに相争うようにも見受けられますが、そこから生じる、右翼と左翼の不毛なあらそいを脱して、日本文明の本質にふさわしい政治のあり方が確立されるために必要な鍵は、日本人が再び、伝統的な、粘菌的な生き方を取り戻すことにあります。
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