多くの憲法論はなぜ「日本的」ではないか

その単純な理由。
先日、「最も日本的な憲法論」という記事で、これまでのWJFプロジェクトの憲法関連の記事を改めて紹介させていただきました。

大胆にも「最も日本的な憲法論」と銘打ちましたが、それは、明確にそう言いうる根拠があるためです。

逆に言えば、改憲派にせよ、無効派にせよ、また護憲派にせよ、現在の日本社会で展開されている多くの憲法論は「日本的ではない」と明言できます。

その理由は、たいがいの憲法論は、「憲法」や「憲法」が日本に導入されて以降の時代に関心を特化させ、その狭い枠内で、日本国憲法の是非を論じようとしているためです。

日本は、「憲法」なるものが存在しなかった時代の方がはるかに長いので、「非・憲法」の時代をも視野にいれ、「縄文から現代に至る日本人の歴史的あゆみの全体」の中に、「憲法」が存在するようになって以降の時代、つまりは日本の近現代を位置づけた上で憲法の問題を論じないと、日本国憲法の是非を正しく論じることはできません。



中沢新一と南方熊楠」という記事のシリーズでお話してきたとおり、日本文明の本質は、「A」と「非・A」の二つの領域に等しく着目し、二つの領域を媒介することにありますから、どんなに大日本帝国憲法や日本国憲法の条文を丹念に読み込み、その成立の経緯を緻密に研究したところで、明治維新以降の日本に関心を偏向させ、「非・憲法」の時代を視野の中に含めない憲法論議が、日本の本質から逸脱した非日本的なものになってしまうのは当然のことです。

明治維新以降に関心を特化させれば、敗戦の結果作られた日本国憲法よりも、大日本帝国憲法の方があたかも日本の伝統に則しているかのような誤解が生まれますが、憲法が存在しなかった時代にも視野を広げるならば、象徴天皇制や、平和主義をうたう日本国憲法は、決して日本の本来の国柄に背くものではないことがわかります。

保守や愛国を標榜する人々の憲法論が、まったく日本的なものではないとは、なんとも皮肉なことです。

「A」と「非・A」、「憲法」と「非・憲法」、「国家」と「非国家」、「律令制導入以降の日本」と「律令制導入以前の日本」、「明治維新以降の日本」と「明治維新以前の日本」・・・、二つの領域に等しく目配りをした上で、二つの領域を媒介し包摂する全体的視野の中で、憲法の問題を論じる。

日本人にとって当たり前のこの所作が、日本のこれからのスタンダードとなっていくことを切実に願います。
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