非国家の国家
自然国家の意味。
しつこいぐらい、ずっと同じ話を続けています。
今日は、少し難しい切り口から説明します。何の話をしているのかさっぱりわからない方もいるかもしれません。

「中沢新一と南方熊楠」という記事のシリーズで取り上げている、「A」と「非・A」というお話は、気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、「色即是空・空即是色」という仏教の教えにも深く関連するものです。
「A」は「色」であり、「非・A」は「空」や「無」です。
「色即是空・空即是色」とは、「『色』(形あるもの)は、すなわち『空』(形なきもの)である」という意味であり、WJFプロジェクト的には「『A』即『非・A』、『非・A』即『A』」となるわけですが、鈴木大拙という世界的な禅仏教の思想家が、これに酷似した「即非の論理」ということを言っています。
「即非の論理」とは、鈴木大拙が「金剛般若経」というお経の中に発見した論理ですが
という独特の三段論法のことです。
わかりやすく言えば、AがAであるという認識の裏側には、AがAではないという認識が同時に含まれていなければ、AがAであるという認識は成り立たないということです。
この「即非の論理」を表した例として、以前にも当ブログで取り上げたことがありますが、蘇東坡という中国の北宋の詩人の詩がしばしば用いられます。
次のような作品です。
廬山と浙江は、当時の中国で、二大景勝地として知られていた場所です。
また、同じ趣旨の言葉ですが、鈴木大拙は、「無分別の分別」ということも言いました。
「分別」とは、言語に基づく分析的な知。
「無分別」とは、非言語的な純粋経験に基づく直感的な全体知。
人間の知は、単なる「分別」でも、単なる「無分別」であってもならず、「無分別の分別」とも言うべき、二つの知が表裏一体になったものでなくてはならないという意味です。
つまり、「色即是空」という般若心経の教えや、「即非の論理」とまったく同じことを述べた言葉です。
「無分別の分別」
この形式は、日本をめぐる、さまざまなことがらにも当てはまります。
たとえば、日本人の宗教性は、司馬遼太郎も指摘するとおり、単なる「無宗教」でも、単なる「宗教」でもない、「無宗教の宗教」というべきものです。
日本人にふさわしい政治性は、単なる「政治」でも、単なる「非政治」でもない、「非政治の政治」と呼ぶべきものです。
日本という自然国家は、単なる「国家」でも、単なる「非国家」でもない、「非国家の国家」と呼ぶべきものです。
「無宗教の宗教」
「非政治の政治」
「非国家の国家」
これらのことがわからずに、単なる「無宗教」や単なる「宗教」、単なる「非政治」や単なる「政治」、単なる「非国家」や単なる「国家」に傾斜していくときに、日本はおかしな国になっていきます。
実際には、二つの相反することがらを媒介する方法を忘れた、そのような人々にあふれかえっているので、この国は実際におかしくなってきてはいるのですが。
今日は、少し難しい切り口から説明します。何の話をしているのかさっぱりわからない方もいるかもしれません。

「中沢新一と南方熊楠」という記事のシリーズで取り上げている、「A」と「非・A」というお話は、気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、「色即是空・空即是色」という仏教の教えにも深く関連するものです。
「A」は「色」であり、「非・A」は「空」や「無」です。
「色即是空・空即是色」とは、「『色』(形あるもの)は、すなわち『空』(形なきもの)である」という意味であり、WJFプロジェクト的には「『A』即『非・A』、『非・A』即『A』」となるわけですが、鈴木大拙という世界的な禅仏教の思想家が、これに酷似した「即非の論理」ということを言っています。
「即非の論理」とは、鈴木大拙が「金剛般若経」というお経の中に発見した論理ですが
Aは即ちAである
なおかつAは即ち非Aである
ゆえにAは即ちAである
という独特の三段論法のことです。
わかりやすく言えば、AがAであるという認識の裏側には、AがAではないという認識が同時に含まれていなければ、AがAであるという認識は成り立たないということです。
この「即非の論理」を表した例として、以前にも当ブログで取り上げたことがありますが、蘇東坡という中国の北宋の詩人の詩がしばしば用いられます。
次のような作品です。
廬山烟雨浙江潮 - 廬山は煙雨浙江は潮
未到千般恨不消 - 未だ到らざれば千般恨消せず
到得歸來無別事 - 到り得て帰り来れば別事無し
廬山烟雨浙江潮 - 廬山は煙雨浙江は潮
廬山と浙江は、当時の中国で、二大景勝地として知られていた場所です。
「廬山は煙雨が美しい、浙江は潮が美しい」(と人々が言う。)
私は未だ行ったことがなかったので、行きたくてたまらなかった。
実際に行くことができて帰ってみれば、どうということはない。
「廬山は煙雨が美しい、浙江は潮が美しい」
また、同じ趣旨の言葉ですが、鈴木大拙は、「無分別の分別」ということも言いました。
「分別」とは、言語に基づく分析的な知。
「無分別」とは、非言語的な純粋経験に基づく直感的な全体知。
人間の知は、単なる「分別」でも、単なる「無分別」であってもならず、「無分別の分別」とも言うべき、二つの知が表裏一体になったものでなくてはならないという意味です。
つまり、「色即是空」という般若心経の教えや、「即非の論理」とまったく同じことを述べた言葉です。
「無分別の分別」
この形式は、日本をめぐる、さまざまなことがらにも当てはまります。
たとえば、日本人の宗教性は、司馬遼太郎も指摘するとおり、単なる「無宗教」でも、単なる「宗教」でもない、「無宗教の宗教」というべきものです。
日本人にふさわしい政治性は、単なる「政治」でも、単なる「非政治」でもない、「非政治の政治」と呼ぶべきものです。
日本という自然国家は、単なる「国家」でも、単なる「非国家」でもない、「非国家の国家」と呼ぶべきものです。
「無宗教の宗教」
「非政治の政治」
「非国家の国家」
これらのことがわからずに、単なる「無宗教」や単なる「宗教」、単なる「非政治」や単なる「政治」、単なる「非国家」や単なる「国家」に傾斜していくときに、日本はおかしな国になっていきます。
実際には、二つの相反することがらを媒介する方法を忘れた、そのような人々にあふれかえっているので、この国は実際におかしくなってきてはいるのですが。
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