中沢新一と南方熊楠(16)

「六根清浄太祓」に関する追記。
遅くとも江戸時代初期より、修験者たちも好んで用いた「六根清浄太祓」について、もう少し述べておきたいことがあります。

(細かい話ですので興味のある方だけお読み下さい。)

天照皇太神(あまてらしますすめおおかみ)の宣(のたまわ)く
人は則(すなわち)天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり
須掌静謐(すべからくしずまることをつかさどるべし)心は則(すなわち)神明(かみとかみ)との本主(もとのあるじ)たり
莫令傷心神(わがたましいをいたましむることなかれ)

是故(このゆえ)に
目に諸(もろもろ)の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
意(こころ)に諸の不浄を思ひて 心(こころ)に諸の不浄を想はず

此の時に清潔(きよくいさぎよ)き偈(こと)あり
諸の法(のり)は影と像(かたち)の如し
清(きよ)く潔(きよ)ければ仮にも穢(けが)るること無し
説(こと)を取らば不可得(うべからず)
皆花よりぞ木実とは生(な)る

我が身は則(すなわち)六根清浄(ろっこんしょうじょう)なり
六根清浄なるが故に 五臓(ごぞう)の神君(しんくん)安寧(あんねい)なり
五臓の神君安寧なるが故に 天地の神と同根なり
天地の神と同根なるが故に 万物の霊と同体なり
万物の霊と同体なるが故に 為す所の願いとして成就せずといふことなし

無上霊宝(むじょうれいほう) 神道加持(しんとうかじ)

(出典: 『神道大祓全集』)


前回の記事でも簡単に触れましたが、この祝詞は、同じ和語に異なる二つの漢字をあてがって二重に反復する箇所がいくつか見られます。

(1)第一段、神明(かみとかみ)
(2)第二段、意(こころ)と、心(こころ)
(3)第三段、偈(こと)と、説(こと)
(4)第三段、清(きよ)いと、潔(きよ)い

すべて和語で書かれた「大祓詞」と異なり、「六根清浄太祓」の特徴は和語と漢語を混在させている点にあるため、(1)や(4)の用例に関しては、一つの可能性として、「神明」「清潔」という類義語並列型熟語の漢語が先行し、それにあとから和語の読みをあてがったところから生じたことも考えられますが、第三段中で、一旦「清潔」を「きよくいさぎよし」と読ませながら、その直後で「清潔」に「きよくきよければ」と同じ和語を反復する異なる訓をあてがって読み替えていることから、(2)の用例に顕著にみられるように、一つの概念がはらむ二重構造が、ことさらに意識されていた可能性が排除できません。

つまり、下の図式のように、「A」と「非・A」という二つの領域を並置し、この二つに等しい関心を向けようとする捉え方が、「六根清浄太祓」の根底にある可能性が考えられます。



第三段にあらわれる次のような対の概念も、この解釈を裏付けます。

影(かげ)と像(かたち)
花(はな)と木実(このみ)

像や木実は、実定的な明確な形を取るものであるのに対して、影や花は、形があいまいなものたちです。

さらに、「像(かたち)」は「影」を作り出す原因であり、「花(はな)」は「木実(このみ)」を作り出す原因であるという因果の関係がこれらの対の概念の間には存在します。

すると、これらの対の概念は、明確な形をもつ実定的な領域「A」と、その周囲に拡がる、いまだ形を取らない潜在性の領域である「非・A」の領域を暗示していることになります。「非・A」は、「A」を生み出す母体だからです。

第三段末尾の文、

「皆花よりぞ木実とは生(な)る」

は、まさにこの考えを述べており、それだからこそ、

「説(こと)を取らば不可得(うべからず)」
(現実として現れた「こと」だけでは、世界の全体像は見えない)

と言い得ることになります。

「こと」という和語は、「事」「言」「説」「偈」、どの漢語をあてがうにせよ、明確な形をとって現れたものを表す実定的な概念ですから、現実化した物事にしか着目しない実証科学では世界の全体像を表すことができないと、熊楠が西洋科学に対して抱いたのと同じ感慨が述べられていることになります。

では、どうしたら世界の全体像は見えてくるのか。

「不浄」という阻害要因が除かれ、心の深層と自然との連続性が守られるとき、

「為す所の願いとして成就せずといふことなし」

という事態が生じるといいます。

近代文明のように「こと」のみに注視し、より多くの「こと」を引き出すための簒奪の対象として世界や自然を客体視するのではなく、「こと」を生成する自然のダイナミックな働きの側に立ち、それと調和する「願い」をもって人がその働きに参与するときに、形が影を作り、花が木実を生む、世界の生成プロセスの全体像が自ずから姿を現していくというのです。

もう一点付け加えておきたい点は、古代に作られた「大祓詞(中臣祓)」が、「罪・穢れ」を、一つの浄化装置としての自然界の中に積極的に流出させることで浄化しようとするのに対し、中世・近世に成立したと考えられる「六根清浄太祓」は、心の中の自然界とも言うべき無意識の領域に、「不浄」が流入していくのを遮断することによって、人間の浄化を図ろうとしている点です。「祓」の方法をめぐるこの違いが、どこから生じたのかも、大変興味深いテーマです。

延喜式のような律令格式が定める大祓式を催行することを想定して作られた「大祓詞(中臣祓)」が、「罪・穢れ」の問題を「天津罪、国津罪」として共同体的・社会的な問題として扱っているのに対し、仏教の強い影響がうかがえる「六根清浄太祓」は、「不浄」を個人的・内面的な問題として捉えている点で、一つの「生の哲学」としての要素を強めています。

本日は、全国で、夏越の大祓が執り行われます。
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