中沢新一と南方熊楠(14)

無宗教という日本人の宗教性。
前回の記事の引用文の中に用いられていた「実証科学」という語は、英語で「ポジティブ・サイエンス(positive science)」と言います。

「ポジティブ」という形容詞は、ここでは、「現実の中に、はっきりした形をもって現れた」という意味であり、「実証科学」は、「現実の中に、はっきりした形を持って現れた」ものを対象とするので、「ポジティブ・サイエンス」と呼ばれます。

この意味での「ポジティブ」という形容詞は,日本語では「実定的」とも翻訳されます。

たとえば、現実に条文として存在する法律を、「実定法(positive law)」と呼び、歴史の中に形をとって現れた個別の宗教を「実定宗教(positive religion)」と呼びます。

また、この意味での「ポジティブ」という形容詞の反対語は、「ネガティブ」(否定的)ではなく、「ナチュラル」(自然的)を用います。

「実定法」や「実定宗教」の反対の概念は、「自然法」や「自然宗教」となります。

ほとんどの日本人は特定の「実定宗教」に属さない無宗教の立場ですが、司馬遼太郎のような人が、「日本人は、無宗教という宗教性をもっている」というようなことを言った理由も、下の図式を用いると、よく理解できます。



「非・A」の中にこそ神が宿ると信じた日本人は、体系化された教義を生み出したり、教団や組織を形成したり、壮麗な建造物を建築したり、揺るぎのない形を構築することを目指す「実定宗教」もさることながら、風雨に削られた道ばたの道祖神や、名も知れぬ神を祀った苔むした祠を大切にすることを好みました。



自分だけではなく、他者にも等しい関心を注ぎ、自己と他者を包摂する全体性の中に、自己のふさわしいあり方を見つけようとする日本人の姿勢は、マザーテレサのようなキリスト教系のボランティアの人たちが示す、その根底に自他の対立を前提とした、「自己犠牲」の姿勢とも異なっています。

卓越した特定の個人を、過度に英雄視したり、救世主や教祖のように信奉したりするのではなく、より広い文脈の中で捉えるのも日本人ならではの姿勢です。



たとえば、南方熊楠がどんなに傑出していようとも、彼を日本人全体の中から切り離して英雄視したり、信奉したりすることは、誤った熊楠の理解の仕方であると思います。

南方熊楠は、どこまでも徹底して「ただの日本人」として、愚直なまでに日本文明の本質に即しながら振る舞い続けていたのです。

その究極の平凡さの中に、南方熊楠という人物の非凡さがありました。


と、前回の記事で述べた通りです。

南方熊楠という一個人の思想を介して、より大きな、全体的なものに近づこうとしなくてはならないと思います。

「非・A」という自然の領域に根ざし、実定的な形を持たない宗教性を大切にしてきた日本人ですが、明治時代になると、大きな変化が起こります。国家神道の成立です。

国家神道とは、「A」(文明)と「非・A」(自然)の包摂から成り立っていた従来の神道から、「非・A」(自然)の領域を縮小して、キリスト教に似た、明確な形をもつ実定的な文明の宗教として、神道を再編しなおそうとする試みでした。
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