中沢新一と南方熊楠(13)
南方熊楠の平凡と非凡。
中沢新一氏の最近の著作、『熊楠の星の時間』に、下の図式と重なる記述を見つけましたのでご紹介します。

西洋科学は、「潜在性の状態」とも言うべき、「非・A」の領域に着目することなく、一つ一つの事物が現実化された状態である「A」だけに着目して、その因果関係だけで現象を説明しようとする。この西洋科学の限界を、ほとんどの日本人が西洋文明を吸収することだけに必死になっていた明治の時代に、南方熊楠という人物が既に見抜いていたというのです。

しかし、南方熊楠は、決して特殊な日本人であったわけではありません。
「A」と「非・A」とをつなぐ「往還のルート」を切り開いたのは、歴史に名だたる一人や二人の特殊な人物ではありません。白鳳時代の役小角に始まり、上皇から貴族や武士や農民にいたる、あらゆる社会階層の夥しい数の日本人が、1200年間に及ぶ長い時間をかけて、日本列島の各地を行脚して切り開き踏み固めたのが、熊野古道に象徴されるような、「文明」と「自然」とを結ぶ「往還のルート」でした。
明治の世に移り変わり、多くの日本人が古い生き方に背を向け、「文明開化」に明け暮れるようになってからも、南方熊楠は、名もない無数の日本人が歩んだ「往還のルート」という古道の上を、頑なに歩き続けていたにすぎません。
この点で、南方熊楠は、決して変わり者であったわけではなく、変わってしまったのは明治維新以降の日本の方でした。
熊楠が偉大なのは、劇的な変化を遂げつつあった時代の風潮の中で、ただ単に新しい西洋文明と古い日本の伝統とを対置させ、どちらかを捨てどちらかを選ぶというやり方で問題の処理を計ろうとはせず、西洋文明と日本文明(東洋文明)の間に、二つを結ぶ「往還のルート」を切り開くことで、人間の知の「全体性」を実現させようとした点でした。

南方熊楠は、どこまでも徹底して「ただの日本人」として、愚直なまでに日本文明の本質に即しながら振る舞い続けていたのです。
その究極の平凡さの中に、南方熊楠という人物の非凡さがありました。
(つづく)

南方熊楠のじっさいの思考法をみると、そのことがもっとよくわかります。彼は当時のヨーロッパで飛躍的な発展を見せていた自然科学の方法を学び、それを十分使いこなすことができていましたが、自分の知っている現実界の実相にその方法はまったく適合できていないという不満を感じていました。実証科学(ポジティブ・サイエンス)は現実の世界にあらわれた(現実化した)事実だけを集めて、その因果関係をあきらかにしようとします。しかし、世界はそんな風にはつくられていない、というのが熊楠の実感でした。
事物には「潜在性の状態」と「現実化した状態」との二つの様態があって、現実化している事実もじつは潜在性の状態にある事実を介して、お互いにつながりあっています。そのため現実化した事実だけを集めて因果関係を示してみせたとしても、それは不完全な世界理解しかもたらさない、というのが熊楠の考えでした。事物や記号はいったん潜在空間にダイビングしていく見えない回路を介して、お互い関連しあっています。そして潜在空間ではあらゆるものが自由な結合を行う可能性を持って流動しています。
(出典: 中沢新一『熊楠の星の時間』)
西洋科学は、「潜在性の状態」とも言うべき、「非・A」の領域に着目することなく、一つ一つの事物が現実化された状態である「A」だけに着目して、その因果関係だけで現象を説明しようとする。この西洋科学の限界を、ほとんどの日本人が西洋文明を吸収することだけに必死になっていた明治の時代に、南方熊楠という人物が既に見抜いていたというのです。

しかし、南方熊楠は、決して特殊な日本人であったわけではありません。
「A」と「非・A」とをつなぐ「往還のルート」を切り開いたのは、歴史に名だたる一人や二人の特殊な人物ではありません。白鳳時代の役小角に始まり、上皇から貴族や武士や農民にいたる、あらゆる社会階層の夥しい数の日本人が、1200年間に及ぶ長い時間をかけて、日本列島の各地を行脚して切り開き踏み固めたのが、熊野古道に象徴されるような、「文明」と「自然」とを結ぶ「往還のルート」でした。
明治の世に移り変わり、多くの日本人が古い生き方に背を向け、「文明開化」に明け暮れるようになってからも、南方熊楠は、名もない無数の日本人が歩んだ「往還のルート」という古道の上を、頑なに歩き続けていたにすぎません。
この点で、南方熊楠は、決して変わり者であったわけではなく、変わってしまったのは明治維新以降の日本の方でした。
熊楠が偉大なのは、劇的な変化を遂げつつあった時代の風潮の中で、ただ単に新しい西洋文明と古い日本の伝統とを対置させ、どちらかを捨てどちらかを選ぶというやり方で問題の処理を計ろうとはせず、西洋文明と日本文明(東洋文明)の間に、二つを結ぶ「往還のルート」を切り開くことで、人間の知の「全体性」を実現させようとした点でした。

南方熊楠は、どこまでも徹底して「ただの日本人」として、愚直なまでに日本文明の本質に即しながら振る舞い続けていたのです。
その究極の平凡さの中に、南方熊楠という人物の非凡さがありました。
(つづく)
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