中沢新一と南方熊楠(11)

日本人はなぜ旅をしたのか。
中東のレバノンという国はとても美しい国ですが、レバノン人であっても自由に国内を旅行することはできません。

国内が、いくつもの宗教的なエリアで分断されており、宗教に基づく内戦の時代を経たレバノンでは、自分の所属する宗教と異なる宗教のエリアに足を踏み入れることは大変危険な行為であると見なされているからです。



たとえば、レバノン東部の、シリアとの国境を接するベッカー高原には、バールベックという世界遺産にも登録されている大変著名なローマ時代の遺跡が存在しますが、シーア派地域の中にあるため、キリスト教地域に暮らすレバノン人のほとんどは、バールベックを自分の目で見たことがありません。

このように、世界には、現在でも、旅行という習慣が一般的ではない国や地域が存在するのですが、それとは対照的に、日本では、江戸時代にはすでに、貧しい農民であっても、自由に国内の旅行を楽しむ習慣や仕組みが確立されていました。

実に日本人は大の旅行好きである。本屋の店頭には、宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物、そのほか旅行者の必要な事柄を細かに書いた旅行案内の印刷物がたくさん置いてある。

(出典: アーネスト・サトウ『 一外交官の見た明治維新』)


日本人は驚くほど健脚家で、疲れ知らずの旅人だ。彼らは神仏のために巡礼しているというより、むしろ見たこともない美しいものを求めて、自らの楽しみのために旅をしているのではないだろうか。どの寺も美術館のようなものだし、国中の山や谷には、かならずそういった寺があり、人目を引きつけてやまぬものが存在している。

自分の作った米さえ一粒も食べられないような貧しい農民でも、一ヶ月ぐらいの巡礼の旅に出ることはできる。そのため、稲田にはあまり手のかからない時期になると、何十万という貧しい百姓がお遍路になる。これが可能なのも、昔から、誰もが巡礼者にはわずかなりとも施しをする、という習慣があるからである。どこにでも、巡礼者だけが利用できる木賃宿という特別の宿があり、そこで身を休めるようになっている。木賃宿というその名の通り、そこでは自炊用の薪の代金を支払うだけでよい。

しかし、大多数の巡礼者が試みているのは、とても一ヶ月では成し遂げられないようなものだ。三十三カ所の観音参りや、項法大師の八十八カ所の札所巡りなどがそれである。そうした巡礼の旅を回りきるには何年も要するが、それでも日蓮宗の千個寺参りという途方もない長旅を考えたら、その比ではない。

千個寺参りを成し遂げようと思ったら、ゆうに三十年くらいはかかるであろう。たとえ若い自分に初めても、若さが遠い昔に過ぎ去った頃に、ようやく千番目の寺を迎えるのである。それでも松江にも、そんな大変な巡礼をやってのけた男女が何人かいる。日本全国を見て回り、施しを乞うだけでなく、何か行商をして回っていたようだ。

こうした巡礼の旅を望む者は、祠のような小さな箱を肩に担ぎ、そこに予備の服や食料を入れて運ぶ。また小さな真鍮製の銅鑼を持参していて、いつでもそれを鳴らし、「南無妙法蓮華経」と唱えながら町や村を歩く。それから必ず半紙を綴じた小さな帳面を携帯していて、訪れた寺ごとに、その寺の僧から朱印を押してもらうのである。巡礼の旅が終わる頃、その帳面には千もの印を押してもらったことになり、それはその家の家宝となる。

(出典: ラフカディオ・ハーン『 神々の国の首都』)


江戸時代に庶民の間に大流行したお伊勢参りでは、「抜参り」といって、子どもや奉公人が、親や主人に無断で家や職場を飛び出し伊勢参りに旅立っても、伊勢神宮のお札をもらって帰ってくれば罰することがゆるされませんでした。また、役人に届け出ず、 往来手形をもたなくとも、伊勢参りに向かう旅人の通行は、大らかに黙認されていました。

熊野詣、お伊勢参り、富士講、四国八十八箇所巡り、西国三十三カ所巡り・・・

日本人はどうして、かくも熱心に旅をしたのか。

旅というものが、単なる水平面の移動ではなく、神聖な意味をもつ行為として認められていたからです。



自分が属する生活領域の境界を踏み越えて、異なる領域に足を踏み入れ、二つの領域の間に「往還のルート」を切り開くこと。

そうすることによって、日本列島がもともと備えている全体性や本来性を回復すること。

こういう観点があったがために、越境の行為は、とがめられたり罰せられたりするどころか、推奨すべき神聖な行為として讃えられていたのだと思います。

こう考えると、日本の歴史とは、白鳳時代における、律令制の導入と国家体制の樹立という出来事と並行して、役小角という人物が一人山中に切り開いた「文明」と「自然」を切り結ぶ「往還のルート」が、それ以降、江戸時代にかけて、ゆっくりと日本人全体の間に浸透し、やがて爆発的に普及していったプロセスとして浮かび上がってきます。

役小角は、神話的な人物であり、信憑性のある歴史的資料が少ないため、まじめに論じられることが少ないのですが、日本の歴史において画期的な行動を興した人物であると思います。

熊野詣、お伊勢参り、富士講、四国八十八箇所巡り、西国三十三カ所巡り、そして、これ以外の様々な聖地巡礼もすべて、本質的には、役小角が開いた修験道と同じです。

その本質とは、「A」と「非・A」という二つに分断された領域、おおまかには「文明」と「自然」とも名付けるうる二つの領域を、一つに切り結ぶことです。

日本という国は、特定の政治制度ではなく、そこに住まう人々の長期間にわたる縦横無尽の往来を通して、文明と自然とが融和した、日本らしい独特の文化を深めていきました。

しかし、このようにして、1200年間、多くの日本人が足繁く各地を往来することによって、切り開き、踏み固めてきた、「文明」と「自然」を結ぶ「往還のルート」に、大きな亀裂が生じるきっかけとなったのが、明治維新と日本の西洋化でした。

(つづく)
*
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

WJFプロジェクトについて
ご寄付のお願い
作品リスト
政治的立場
WJFプロジェクトは、日本の主権、伝統、国柄を守る保守的な観点から、安倍政権が推し進めるTPP参加、構造改革、規制緩和、憲法改正、安保法制、移民受入などのグローバル化政策に反対しています。
TPP交渉差止・違憲訴訟の会
YouTube
WJFプロジェクトの動画作品は以下のYouTubeのチャンネルでご覧になれます。

お知らせ
アクセス・カウンター


今日の一言
蓮舫の二重国籍問題のジレンマ

違う入り口を選んだハズなのに、ドアを開けると、同じ出口につながっている。
最新記事
コメント
<>+-
アーカイブ


RSSリンク
RSSリーダーに下のリンクを登録されると、ブログの記事やコメントの更新通知を受け取ることができます。