中沢新一と南方熊楠(7)

ものごとを生成する母体としての「非・A」。
世の中は「モノ」に溢れています。

人間の意識は「モノ」を追いかけ、「モノ」に注意が注がれがちですが、それぞれの「モノ」の背後には、「モノではない」ものたちの、広大な領域が広がっています。

「コップ」というモノがあれば、その背後には、「コップではない」ものたちの領域が拡がり、

「企業」というモノがあれば、その背後には、「企業ではない」ものたちの領域が拡がり、

「A」というモノがあれば、その背後には「非・A」であるものたちの領域が拡がっています。

そして、この「モノではない」ものたちの領域とは、実は、「モノ」が生成される母体に他なりません。

「コップ」というモノが姿を現すのは、「コップではない」ものたちの中からであり、

「企業」というモノが姿を現すのは、「企業ではない」ものたちの中からであり、

「A」というモノが姿を現すのは、「非・A」であるものたちの領域の中からです。

「非・A」とは「A」を成立させる母体であり、「A」(モノ)がよって立つ土台なのですが、文明が発達するほど、人間の意識は、物事のよって立つ土台であるところの「非・A」の領域を意識の外へとおいやり、その領域を忘れ去り、「A」(モノ)ばかりを追いかけ始めます。

そして、教会やモスクのような、「非・A」という母体から切り離された「A」という一重構造をもつ「モノ」で世界を埋め尽くそうとしはじめます。

(いわゆる「物質文明」なるものが、ここに姿を現します。)

「非・A」という土台から切り離された、おのおのの「A」(モノ)たちは、他のモノたちとの親和性を失い、排他的で対抗的な姿勢をとるようになります。

(このような現象は昨今の日本に頻繁に見受けられ、「非・右翼」という土台を持たない「右翼」、「非・左翼」という土台をもたない「左翼」が、互いをたたき合っている現状はまさにこれです。)

しかし、日本文化には、熊野詣や、神社の空間設計に見られるとおり、「A」と「非・A」を抱き合わせる二重構造を各所で反復するという顕著な特徴が見られました。

「人の世界」が片方にあれば、「人ではないものたちの世界」を他方に配置し、「低いもの」が片方にあれば「高いもの」を他方に配置し、二つの対照的な世界を、豊かな往還のルートによって一つにつなごうとしました。

(このような全体的視野をもってものごとを考える人は明治維新による近代化以降少なくなりますが、南方熊楠は、まさにその数少ない一人でした。彼が熱心に西洋科学を学び、そこで優秀な業績をあげながらも、大半の同時代人のような西洋科学の単純な追従者にならなかったのは、彼が、同時に、「非・西洋」「非・科学」というものを視野に入れ、「西洋」と「非・西洋」、「科学」と「非・科学」の間に往還のルートを切り開こうとしていたからです。この点で、熊楠は極めて「熊野的」であったと改めて言わざるをえません。)

この、日本文化に見られる二重構造を、中沢新一氏が『精霊の王』という本の中で明らかにした「後戸の空間」という知見を通して、次回、さらに掘り下げてみたいと思います。
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