中沢新一と南方熊楠(6)
神社に固有の特質。
「京都」と「非・京都」、「A」と「非・A」を一つにつなぐ熊野詣と同じ構造は、神社空間の中にも表現されています。
神社の空間は、社殿とそれを包み込む森によって構成されています。
社殿はご神体のありかを指し示すと同時に、ご神体が人々の目に直接触れることのないように包み込む働きをしています。
概念(言葉)も、モノのありかを指し示すと同時に、モノの本質がむき出しの状態で人々に触れることのないように覆いをかけるフィルターの役割を果たしていますから、概念(言葉)と社殿は、その働きがとても似通っています。
一方、森は、「社殿」が立ち上がる前提となる場所ですから、「A」(概念)に対して、「非・A」とも言うべき位置づけにあります。
このように、神社の空間は、社殿と森、「A」と「非・A」の連続体として成り立っています。
(また逆に言えば、熊野詣とは、京都と熊野の間に、社殿と森に相当する関係を作り、一つの広大な神社空間を形成しようとした運動であったと考えることもできます。)
これは、キリスト教の教会や、イスラム教のモスクとは対照的です。
教会や、モスクも、人々を囲うための建造物として町の中に屹立し、世俗的な外部の世界と、聖なる空間を切り分ける、「A」(概念)と同じ働きをしています。
しかし、教会やモスクは、「A」と「非・A」の連続体であり複合体である神社と異なり、「A」(概念)という要素のみから成り立っています。
教会やモスクの内部のどこを探しても、「非・A」に相当する場所は存在しません。
教会やモスクは、「A」(聖典や教義)が一元的に支配する単一構造をした空間です。
ひたすら圧倒的な「A」(概念)として教会やモスクは町の中に立っています。
上の旧約聖書の言葉は、「A」(言葉や概念)が支配的な一神教の本質を表しています。
一神教は、「枯れていく草やしぼんでいく花」=「非・A」に価値を見いださず、「A」(言葉)に圧倒的な信を置く宗教ですが、「A」と「非・A」を一体のものと扱い、「枯れていく草やしぼんでいく花」から思惟を引き出す日本人の感性とは対照的です。
(つづく)
神社の空間は、社殿とそれを包み込む森によって構成されています。
社殿はご神体のありかを指し示すと同時に、ご神体が人々の目に直接触れることのないように包み込む働きをしています。
概念(言葉)も、モノのありかを指し示すと同時に、モノの本質がむき出しの状態で人々に触れることのないように覆いをかけるフィルターの役割を果たしていますから、概念(言葉)と社殿は、その働きがとても似通っています。
一方、森は、「社殿」が立ち上がる前提となる場所ですから、「A」(概念)に対して、「非・A」とも言うべき位置づけにあります。
このように、神社の空間は、社殿と森、「A」と「非・A」の連続体として成り立っています。
(また逆に言えば、熊野詣とは、京都と熊野の間に、社殿と森に相当する関係を作り、一つの広大な神社空間を形成しようとした運動であったと考えることもできます。)
これは、キリスト教の教会や、イスラム教のモスクとは対照的です。
教会や、モスクも、人々を囲うための建造物として町の中に屹立し、世俗的な外部の世界と、聖なる空間を切り分ける、「A」(概念)と同じ働きをしています。
しかし、教会やモスクは、「A」と「非・A」の連続体であり複合体である神社と異なり、「A」(概念)という要素のみから成り立っています。
教会やモスクの内部のどこを探しても、「非・A」に相当する場所は存在しません。
教会やモスクは、「A」(聖典や教義)が一元的に支配する単一構造をした空間です。
ひたすら圧倒的な「A」(概念)として教会やモスクは町の中に立っています。
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」
(出典: 旧約聖書 イザヤ書40:8)
上の旧約聖書の言葉は、「A」(言葉や概念)が支配的な一神教の本質を表しています。
一神教は、「枯れていく草やしぼんでいく花」=「非・A」に価値を見いださず、「A」(言葉)に圧倒的な信を置く宗教ですが、「A」と「非・A」を一体のものと扱い、「枯れていく草やしぼんでいく花」から思惟を引き出す日本人の感性とは対照的です。
花散らで 月は曇らぬ よなりせば ものを思はぬ わが身ならまし
(出典: 西行『山家集』)
(つづく)
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