中沢新一と南方熊楠(5)

誰もが「熊野詣」を必要とする。
言葉には、もともと一つに連続した世界を切り分ける働きがあります。

たとえば「コップ」と言う言葉は、コップと、コップではないものを二つに切り分けます。

「コップ」という言葉によって、コップたちがグループ化されて囲い込まれるのと同時に、その外側に、コップではないものたちの広大な領域が取り残されます。

しかし、本来の世界は、「コップである」ものたちが属する領域の中にはなく、言葉が作り出す囲いの向こう側に、一つの連続体として横たわっています。

言葉はものを指し示すためのとても便利な符合ですが、言葉のもつこのカラクリは、私たちが人として生きていく上で、大きな害をなすことがあります。

言葉によって囲い込まれた狭い領域の中に、自分の存在までも閉じ込めてしまうことがあるためです。

オウム真理教のようなカルト宗教はその典型的な例であり、その信者たちは、「オウム真理教」という符合の付せられた集団の中に自分たちを閉塞させ、「オウム真理教ではない」外界との経路を自ら遮断しました。

しかし、仮にオウム真理教のように犯罪やテロを起こさなくても、オウム真理教の信徒のように何かにすっぽりと囲い込まれた状態で生きている人々は、オウム真理教の信者に限りません。

「右翼」という立場の中に自分を閉じ込めて、「右翼ではない」人々を叩いている人々。

「左翼」という立場の中に自分を閉じ込めて、「左翼ではない」人々を叩いている人々。

会社や学校などの、社会的立場の中に自分を閉じ込めて生きている人々。

現代社会において、何かに囲い込まれた状態で生きている人たちは、枚挙にいとまがありません。

しかし、歴史を振り返るならば、日本人はそうではなかった。

平安末期、京都の都人らは、上皇のような政治の最高権力者も含めて、「京都」や、そこで展開されていた政治の世界に自分たちを閉塞させておくことなく、「非・京都」に他ならない熊野に足繁く通った。

そのことによって、「京都」と「非・京都」の間に往還のルートを開き、閉ざされた領域を拡張し、世界が本来もっている一つながりの全体性を回復しようとしました。

このように、狭い囲いを破るものの象徴が「熊野」なのですから、ある人を閉じ込めているものが「会社」ならば「非・会社」との往還のルートを開くことは、その人にとっての「熊野詣」であり、ある人を閉じ込めているものが「右翼」という立場ならば、「非・右翼」との往還のルートを開くことが、その人にとっての「熊野詣」になります。

それぞれの「熊野詣」を敢行することによって、私たちが生きる世界の全体性を取り戻さなくてはなりません。

(つづく)
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