中沢新一と南方熊楠(4)

「A」と「非・A」との間の往還の通路。
なぜ、平安後期以降、都人らはこぞって熊野に向かったのか。

自然なら平安京の周辺にふんだんにあったではないか。

なぜそれは、貴船や鞍馬や高雄や比叡山や、奈良や吉野や伊勢ではなく、熊野でなければならなかったのか。

その一つの答えは、熊野が、都人らにとって、あらゆる意味で「京都」と正反対の性質をもつ「非・京都」だったからだと私は考えます。

京都の一部である、貴船や鞍馬や高雄や比叡山のような土地であれば、「京都」とそれらの場所との間に正反対の対照的な関係は存在しません。

かつての都であった奈良や、皇室との関係の深い伊勢でも、京都との間に対照性は存在しません。

しかし、各所に、縄文時代にまでさかのぼるであろう、古い磐座信仰の痕跡をふんだんに留める熊野は、景色も風土も文化も歴史も、あらゆる意味で、京都とは対照的な土地です。


(熊野市、丹倉神社。写真をクリックすると拡大します。)


(熊野市、丹倉神社の磐座。)

都人らは、「京都」だけでは、世界が、その半身でしかないことに、どこかで気づいたのではないか。

都人らの深層心理は、「京都」と、まったく対照的な「非・京都」としての熊野との間に、往還のルートをつくることによって、世界の全体性の実現を目指したとは言えないでしょうか。

このように、「A」と「非・A」という、正反対の性質をもつ二つのものの間に緊密な連絡の通路を設け、全体性を形作ろうとする日本人の習性は、宗教、芸能、文化、政治、あらゆる領域に反復されているように思います。

たとえば、なぜ江戸の庶民は、伊勢に向かったのか。

皇室の霊廟である伊勢が、江戸の庶民にとって、「江戸」とは対極の性質をもつ「非・江戸」だったからです。

逆に、江戸時代に熊野詣が下火になった理由は、「江戸」という東国と「熊野」との間にはある種の同質性が存在しており、「江戸」と「伊勢」の間にみられるようなくっきりとした対照性が存在しないからです。

また、なぜ関東平野の住人たちは、富士講を結成し、富士塚を作り、熱心に富士山の高みを目指したのか。

彼らの暮らす「低地」に対して、富士山が「高地」であったからです。

このように、日本人の中には、対照的な性質をもっていたり、対立関係にある二つのもののいずれか片方だけを選択して、他を排除するよりも、二つのものを一つに結びつけて、全体性を守ろうとする習性があるように思われます。

崇神天皇が、大物主という地祇と、天照大神という天神を、対等に等しく祭る祭祀を始めたとする日本書紀の記述も、日本人の同じ性向をしめしていますし、中世や近世において、朝廷の権威と、幕府の権力が並置されてきた二重構造にも、同じ日本人の習性が反復されています。

また、もっとも最近の例では、アイドルとメタルという対極のものを結びつけたBABYMETALの活動の中にも、同じ日本人らしい習性の表れが見受けられます。

この点を、中沢新一氏の知見や、神社合祀に対する南方熊楠の反対運動のもつ意味と重ね合わせながら、さらに、論考してみたいと思います。

(つづく)
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