中沢新一と南方熊楠(2)

「熊野」を体現した男。
中沢新一氏の南方熊楠賞の受賞は、私にとってもうれしいニュースでしたが、もう一つ、最近うれしい知らせがありました。

熊野古道22カ所、世界遺産追加登録へ ユネスコ決議案

熊野古道で知られる世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」(和歌山、三重、奈良)について、新しい箇所を追加登録することを承認する決議案を、国連教育科学文化機関(ユネスコ)がまとめた。7月10日からトルコ・イスタンブールで開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式決定される。

追加されるのは、熊野参詣道の「中辺路(なかへち)」「大辺路(おおへち)」内と、高野参詣道のいずれも和歌山県内の22カ所で、計40・1キロ。新たに確認された山中の道や、保全態勢が整った神社の敷地で、政府が1月に申請していた。

「紀伊山地の霊場と参詣道」は、和歌山の熊野三山と高野山、吉野・大峯の3霊場とそれらを結ぶ熊野古道など300キロ以上に及ぶ信仰の道で、2004年に日本で12番目に登録された。登録済みの世界遺産の追加登録は、石見(いわみ)銀山(島根)に続いて国内2例目。



(出典: 朝日新聞 2016年6月12日)


今回、世界遺産に追加登録される場所の中に、和歌山県田辺市の闘鶏神社が含まれています。

田辺は、中辺路(なかへち)と呼ばれる、紀伊半島の海岸線から熊野本宮に至る古道ルートの入り口にあたり、平安時代から鎌倉時代にかけて熊野三山を総括する役職であった熊野別当家の一つ、田辺別当家が拠点とした町です。


(南方熊楠邸近くの駄菓子屋さん)

平安末期、平清盛が熊野参詣のため、京都を留守にしていた隙を突いて引き起こされたクーデターから始まった平治の乱では、19代熊野別当湛快は、熊野に滞在中であった平清盛を支援し、その功を称えられ平氏から多くの恩賞を受け取りますが、その後源平間の緊張が高まるにつれ、熊野別当家は、源氏を支援する新宮別当家と、平氏を支援する田辺別当家に分裂していきました。


(闘鶏神社)

1184年、治承・寿永の乱(源平合戦)のただ中に、21代熊野別当に補任された湛快の息子湛増は、源氏につくべきか平氏につくべきかの最終決断を行うため、当時、新熊野十二所権現と呼ばれていた闘鶏神社で、紅白七羽づつの鶏を使った闘鶏によって神意を占いました。白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣し、源氏の勝利に貢献したと平家物語は記しています。この湛増の息子が、弁慶であったと言われています。


(弁慶と湛増の像)

このように、田辺は、熊野三山を総括し古代から中世への時代の移行に深く関与した町なわけですが、そのような土地を熊楠が永住の地として選んだことは、なにか、深い因縁を感じさせます。

闘鶏神社と南方熊楠も深い縁で結ばれており、南方熊楠は、闘鶏神社の宮司の四女と結婚をし、闘鶏神社の門前に家を構えました。(現在の南方熊楠顕彰館。)


(南方熊楠邸)


(南方熊楠顕彰館)

私が、闘鶏神社を訪れた時、神職が勇壮に太鼓を打ち鳴らしながら大祓詞を唱える、独特の祈祷のスタイルをたまたま拝見することができ、深い感銘を受けました。
熊野本宮でも同じスタイルの祈祷が行われているそうですが、闘鶏神社から発祥したものだと社務所の方がお話されていました。関東では三峯神社でも太鼓を用いた祈祷がなされているようです。祈祷太鼓は、曹洞宗のようなお寺でも行われているので、神仏習合と何か関係があるのかもしれません。
さて、南方熊楠賞の受賞を受けて、中沢新一氏は、シュテファン・ツヴァイクの『人類の星の時間』という書物からタイトルを借りた『熊楠の星の時間』という書物を上梓していますが、雑誌「週刊現代」にも興味深い記事を寄せていますので、その記事を通して南方熊楠の思想と業績を最後に紹介させていただきます。

「天才・南方熊楠が見ていたもの」~18ヵ国語でフィールドワークしながら、セックスも研究。彼は日本版レオナルド・ダ・ヴィンチだった



後にも先にも、これほど破天荒な才能はなかった。超人的な知性と、少年のような好奇心で、誰よりも遠く深い場所に達した日本人。熊楠を師と仰ぎ、彼の遺産を受け継ぐ人類学者が、その魅力を語る。

私が南方熊楠を知ったのは、中学生の頃です。民俗学者だった父の本棚に、著者の名前が難しくて読めない本があった。それが熊楠の本でした。

子供はヒーローに憧れ、「こんな人に自分もなりたい」と思うものですよね。私はナポレオンや織田信長にはまったく惹かれませんでした。しかし、熊楠の伝記を読んでみたら、「日本にこんなすごい人がいたのか」と、すっかり夢中になってしまったのです。

熊楠が特に優れていたのは、「西欧近代文明という脅威に、日本はどう立ち向かうべきか」という独自のビジョンを示した点でしょう。

司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いたように、明治の日本人の多くは、「最新科学で武装した欧米列強をまねて、オレたちも強くなろう」と考えていました。しかし熊楠は、軍事力を背景にした帝国主義には何の価値も見出さなかった。「日本人が目指すべきものは、もっと別のところにある」と直感していました。

欧米に留学した明治の日本のエリートたちは、最新の学問を学び、日本に持ち帰るということにかけてはお上手でしたが、熊楠はそれにも興味がなかった。欧米人と同じ土俵で戦うのは簡単だが、気に食わない。日本人は、欧米とは違う独自の思想を生み出し、それをグローバルに発信することができるはずだ—こう熊楠は考えた。そして私は子供ながら、その考えに深く共感したのです。

熊楠は、しばしばレオナルド・ダ・ヴィンチと比較されます。確かに「万能の天才」という点では共通しているかもしれませんが、未来志向でクールなダ・ヴィンチよりも、私は熊楠の思想のほうが、あたたかく、人類の心や文化の深いところを見据えていたと感じます。

熊楠の頭脳の優秀さは驚異的でした。英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語の学術書を読みこなし、論文を書き、世界各国の第一線の学者たちと議論をたたかわせた。ラテン語やギリシャ語、サンスクリット語など、全部で18ヵ国語を操ったといいます。

「映像記憶」といって、一度目にしたものを写真のように脳に焼き付けて覚えることもできました。小学校の頃、友人の家にあった全105巻の百科事典『和漢三才図会』を、その家に通って覚え、自宅に戻って書き起こすというやり方で、ついに全て筆写してしまったという逸話は有名です。

一方で熊楠は、庶民と深く交わり、話を聞くことが何より好きでした。「民話や伝承を集めるには銭湯がいいんだ」と言って、地元の人たちと一緒に風呂に入りながら、「こんな話を知らないか」と聞いて研究材料を集めていたそうです。

(中略)

また、マジメでエリートの柳田は、手紙や論文で熊楠があけすけに「下ネタ」を書くことに、引いていた節があります。しかし、熊楠は人間という存在の全体をとらえようとしたので、「セックス抜きの人間観」というものを信じていなかった。その点、政治経済からセックスまでカバーする週刊現代は「熊楠的」な雑誌と言えます(笑)。

(中略)

性というと、男と女の2つの極があるものだと思われているけれど、本当は両者の中間にこそ真理がある。それが現実に現れた存在がふたなりである、と考えた。後述しますが、これは熊楠の思想全体をつらぬいていた考え方でもあります。

(中略)

熊楠は、日本人として初めて「エコロジー」という概念を提唱したことでも知られています。ただ、熊楠が言う「エコロジー」は、現代人の「環境保護」という考え方とは大きく異なります。

先ほど、熊楠はものごとの「中間」を重視したと述べました。熊楠は、仏教の「相即相入」という概念を使って、自身のエコロジー思想を組み立てています。これは、「人間と動植物のあいだに断絶がなく、両者が互いの中へ入り込んでゆくような状態」を指す言葉です。

古代の人々は、トーテミズムといって、「自然界の動植物と私たち人間には、深いつながりがある」という思考をおこなっていました。「熊楠」という名前も、動物の王者である熊と、植物の王者である楠から取られている。熊野周辺には、こうしたトーテミズム的な名前を持つ人が多かったのです。

熊楠も、熊と楠が自分と深くつながった「トーテム」であり、さらにこのトーテムを通して、自然全体とつながっているという意識を常に抱いていました。ですから、熊楠は「森の木が切り倒されるのは、自分の体が切り刻まれるのと同じだ」と感じていたわけです。

近代文明は、こうした考え方を理解できず、未開で野蛮な思考だととらえました。明治政府も、日本人を均質化して強い国を作るために、神道を国民道徳の基盤に据えようとしました。

結果、小さな祠や道祖神などは「淫祠邪教」と弾圧され、潰されて、大きな神社へ合祀されることになった。熊楠はあらゆる研究・執筆を中断して、この動きに猛反対します。柳田の協力もあって、この政府が目論んだ神社合祀はやがて沈静化しましたが、熊楠が住む和歌山県でも、多くの小社が消えてしまいました。

このとき熊楠が主張した「エコロジー」は、現代の私たちが知る欧米の近代文明が生み出した「エコロジー」、つまり人間と自然を別物と考えて、人間が自然を一方向的に守るのだという発想よりも、はるかに大きな射程を持っていました。

もうひとつ、熊楠の思想を語るうえで欠かすことができないのが、彼の粘菌に関する研究です。

粘菌は、森の中の湿った場所で暮らしていて、周囲の環境がいいとアメーバのような姿になって移動し、環境が悪くなると植物のように根を張って胞子を飛ばし繁殖する。いわば、動物と植物の中間のような生き物です。

熊楠は、粘菌の中に「生命の本質」がひそんでいると考えました。粘菌という生物は、動物的でもあり植物的でもある。さらには、生きているのか死んでいるのかさえも定かではない。ここに熊楠は、先ほど言った「相即相入」—つまり、動物と植物、生と死が渾然一体となっているという、生命の哲学的な本質が現れているのではないか、と考えたのです。

私たちが暮らしている近代文明は「ロゴス」、つまり、言葉で言い表すことのできる論理によって動いています。ロゴスの論理においては、生と死は決して重なり合わないし、動物と植物は別の生き物です。ロゴスは言葉を順番にたどっていけば、必ず理解できる。「整理」や「秩序」の論理と言ってもよいでしょう。

しかし、仏教や古代ギリシャの思想には、もうひとつ「レンマ」の論理というものがありました。言葉では世界の本質はとらえきれない。世界は多次元的に複雑に動いているのだから、時間軸に沿って整理するのではなく、直感的に、全体を一気に把握する必要がある。これがレンマの論理です。「悟り」と言ったほうが分かりやすいかもしれませんね。

イギリス留学から戻った熊楠は、那智の山中に3年間こもって粘菌の研究に没頭しました。その時期に書かれた書簡には、このレンマの論理が爆発するように噴出し、書き記されています。私はこのときの熊楠の思考こそ、近代日本における最も天才的で、画期的な思考だったと思います。


(南方熊楠の那智の滞在場所)
今でも科学はロゴスにもとづいていますが、実は量子力学や宇宙論、脳科学といった最先端の分野では、ロゴスだけではうまくいかないということが分かってきています。熊楠は、熊野の山中にたった一人でこもっていたにもかかわらず、その事実に気付いていたのです。彼以外まだ、世界中で誰も、このことに気付いた人はいなかった。これは現代社会を生きる私たちにとっても、とてつもなく大きな知的遺産です。

熊楠は1929年、生物学を学んでいた若かりし頃の昭和天皇に進講し、粘菌について講義をしています。彼は指名を受けたことをとても光栄に思い、フロックコートを仕立て直して、万全の準備を整えて臨みました。

生涯どんな地位も求めず、大学組織にも属さなかった熊楠が、なぜ天皇には深々と頭を下げたのか。きっと熊楠は、天皇が日本の国土や自然と「相即相入」の関係にある存在だと考えていたのでしょう。草木も動物も人間も、ずっと昔からこの列島で一体になって生きてきた。天皇もその一員であり、またその全体性を象徴する存在である。そういう理念に対する自然な尊敬の念を、熊楠は抱いていたのだと思います。

今では、エコロジーを語るにも、国家を語るにも、何かと「政治」が付きまといます。しかし、熊楠は右翼とか左翼とか、そんな表面的な区別にとらわれてなどいなかった。熊楠の思想を見直して、彼が残した芽を大木に育てたい。今を生きる日本人にこそ、それが必要だと私は思っています。

(出典: 現代ビジネス 2016年5月26日)


熊野古道は世界遺産に登録されてはいますが、熊野という土地の歴史的な意義は、まだ十分に解明されていないし、現代の日本の社会にも広く伝えられていないと感じています。

政治的な問題に対して、政治的なやり方で声をあげるのは大切なことですが、同時に、根底において、「熊野」的なものを、日本人の間に復興させていくことが必要だと思います。



南方熊楠という「個」の中に、熊野という土地の「全体」、さらには熊野という土地を包む世界の「全体」が凝集されています。熊野が熊楠を包み、熊楠が熊野を包む。「個」が「全体」を包摂し、「全体」が「個」を包摂する、そのような構造を抱えているのは、なにも、南方熊楠一人ではなく、私たち人一人がそのような存在です。私たちの中にある「全体」を生ききらなくてはなりません。
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