歴史を形作る目に見えない力について(15)
二つの普遍性のはざまで(1)
白鳳時代に現れた、日本の三重構造。

この三重構造は、日本のみならず、私たち一人一人の存在の構造もうきぼりにしています。
そのことを、いろいろな角度から考えてみたいと思います。
上掲の三重構造を、より単純化し一般化すると次のようになります。

これを個人に敷衍すれぱ、次のようになります。

時間軸に展開すると、次のようなとらえ方も可能です。

上の、いずれの三重構造も、どら焼きの断面図のような構造を持ちます。

どら焼きのように、最上位の層と最下位の層は、ある共通の性向を含み持っており、二枚のカステラの間に挟まれたあんこだけが異質です。
どういうことか。
『日本霊異記』の記述をもう一度読み返してみましょう。すると、次のようなことが書いてあります。
大宝律令が完成した年に律令政府の赦免を受けた後、空に飛び去った役小角が、天皇の命を受けて唐に渡った日本の僧侶によって、新羅で五百匹の虎の中にいるのを目撃されたと書かれています。
当時、日本の国外に渡ることができたのは、原則として、遣唐使や、遣新羅使のような、律令政府の役人でした。上記の僧侶も、天皇の命によって唐に渡ったと書かれています。
上掲の三重構造で言えば、最上位の「文明」の層に属する人たちが、国外に出るというグローバルな行動を取ることができました。
『日本霊異記』は、そのような律令政府の役人と同じように、「政治」や「文明」からは疎外され、上掲の三重構造の最下層である「自然」という領域に追放された役小角が、日本の国外に姿を現したと記しています。
これは、「文明」と「自然」の二つの領域が共通して含み持つ、共通の性向を含意しています。
その性向とは、普遍や無限への志向性のことです。
「文明」や「自然」は、それ自体は、国家という枠を踏み越えて、普遍性を目指します。
「知性」や「潜在意識」は、個々の人間存在を超えた普遍性を持ちますし、
「未来」や「過去」は、無限の広がりを持っています。
これら、二つの普遍、二つの無限の間に挟まれた、「民族」や「身体」や「現在」だけが、有限性や個別性をもっています。
参照記事:
WJFプロジェクト「一瀉千里の奔流となり得る日(9)」(2015年11月9日)

この三重構造は、日本のみならず、私たち一人一人の存在の構造もうきぼりにしています。
そのことを、いろいろな角度から考えてみたいと思います。
上掲の三重構造を、より単純化し一般化すると次のようになります。

これを個人に敷衍すれぱ、次のようになります。

時間軸に展開すると、次のようなとらえ方も可能です。

上の、いずれの三重構造も、どら焼きの断面図のような構造を持ちます。

どら焼きのように、最上位の層と最下位の層は、ある共通の性向を含み持っており、二枚のカステラの間に挟まれたあんこだけが異質です。
どういうことか。
『日本霊異記』の記述をもう一度読み返してみましょう。すると、次のようなことが書いてあります。
是に慈びの音に乗り、大宝の元年の歳の辛丑に次る正月に、天朝の辺に近づき、遂に仙と作りて天に飛びき。吾が聖朝の人、道照法師、勅を奉りて、法を求めむとして太唐に往きき。法師、五百の虎の請を受けて、新羅に至り、其の山中に有りて法花経を講じき。時に虎衆の中に人有り。倭語を以て問を挙げたり。法師、「誰そ」と問ふに、役の優婆塞なりき。法師、「我が国の聖人なり」と思ひて、高座より下りて求むるに无し。
【現代語訳】
朝廷の慈悲によって、特別の赦免があって、大宝元年正月に朝廷の近くに帰ることが許された。ここでついに仙人となって空に飛び去った。 わが国の人、道照法師が、天皇の命を受け、仏法を求めて唐に渡った。ある時、法師は五百匹の虎の招きを受けて、新羅の国に行き、その山中で「法華経」を講じたことがある。その時、講義を聞いている虎の中に一人の人がいた。日本のことばで質問した。法師が、「どなたですか」と尋ねると、それは役優婆塞であった。法師は、さては「わが国の聖だな」と思って、講座から下りて探した。しかしどこにも見当たらなかった。
(出典: 中田祝夫『日本霊異記』全訳注 岩波文庫)
大宝律令が完成した年に律令政府の赦免を受けた後、空に飛び去った役小角が、天皇の命を受けて唐に渡った日本の僧侶によって、新羅で五百匹の虎の中にいるのを目撃されたと書かれています。
当時、日本の国外に渡ることができたのは、原則として、遣唐使や、遣新羅使のような、律令政府の役人でした。上記の僧侶も、天皇の命によって唐に渡ったと書かれています。
上掲の三重構造で言えば、最上位の「文明」の層に属する人たちが、国外に出るというグローバルな行動を取ることができました。
『日本霊異記』は、そのような律令政府の役人と同じように、「政治」や「文明」からは疎外され、上掲の三重構造の最下層である「自然」という領域に追放された役小角が、日本の国外に姿を現したと記しています。
これは、「文明」と「自然」の二つの領域が共通して含み持つ、共通の性向を含意しています。
その性向とは、普遍や無限への志向性のことです。
「文明」や「自然」は、それ自体は、国家という枠を踏み越えて、普遍性を目指します。
「知性」や「潜在意識」は、個々の人間存在を超えた普遍性を持ちますし、
「未来」や「過去」は、無限の広がりを持っています。
これら、二つの普遍、二つの無限の間に挟まれた、「民族」や「身体」や「現在」だけが、有限性や個別性をもっています。
二つの無限。中間。
(出典: パスカル『パンセ』B69-2/ 前田陽一・由木康訳)
このように考えてくる者は、自分自身について恐怖に襲われるであろう。そして自分が、自然が与えてくれた塊のなかに支えられて 無限と虚無とのこの二つの深淵の中間にあるのを眺め、その不可思議を前にして恐れおののくであろう。 そして彼の好奇心は今や驚嘆に変わり、これらのものを僭越な心でもって探求するよりは、沈黙のうちにそれを打ち眺める気持ちになるだろうと信ずる。
なぜなら、そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから 無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており、 彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がそのなかへ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。
それなら人間は、事物の原理をも究極をも知ることができないという永遠の絶望のなかにあって、 ただ事物の外観を見る以外に、いったい何ができるのであろう。すべてのものは、虚無から出て無限にまで 運ばれていく。だれがこの驚くべき歩みについていくというのだろう。
(出典: パスカル『パンセ』B72/ 前田陽一・由木康訳)
参照記事:
WJFプロジェクト「一瀉千里の奔流となり得る日(9)」(2015年11月9日)
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