歴史を形作る目に見えない力について(10)

役小角、その野生のレジスタンス(2)
『続日本紀』と『日本霊異記』の役小角に関する記述を引用します。

文武天皇三年五月丁丑

役君小角、伊豆島に流さる。初め小角葛城山に住し咒術を以て稱さる。外従五位下韓國連廣足これを師とす。後、その能を害み讒するに妖惑をもってす。故に遠處に配す。世に相傳へて云く、小角よく鬼神を役使し、水を汲み薪を取らしむ。もし命を用いずんば、すなわち咒をもってこれを縛す。

【現代語訳】

文武天皇3年(699)5月24日、役君小角が伊豆島に流された。小角は葛城山に住み、呪術をよくすると、世間の評判であった。従五位下の韓国連廣足という者が、当初この小角を師と仰いでいたが、その能力をねたんで、(役小角が)人々に妖言を吐き惑わしていると朝廷に誹謗中傷した。そのため、(小角は)遠島の刑に処せられたのである。世間の噂では、小角は巧みに鬼神を使役して、水を汲んだり薪を採らせ、もし(鬼神が)命令に背くようならば、たちまち呪術によって身動きがとれないようにしてしまう、などと言われている。

(出典:『続日本紀』巻第一)

第二十八「孔雀王の咒法を修持し、異しき験力を得て、現に仙と作りて天に飛ぶ縁」

役の優婆塞は、賀武の役の公、今の高賀武の朝臣といふ者なりき。大和国葛木上郡茅原の村の人なりき。生まれながらに知り、博学なること一を得たり。仰ぎて三宝を信じ、之を以て業と為り。毎に庶はくは五色の雲に挂りて、仲虚の外に飛び、仙宮の賓と携り、億載の庭に遊び、蘂蓋の苑に臥伏し、養性の気を吸ひ、噉はむとねがひき。

所以(ゆえ)に晩年四十余歳を以て、更に巌窟に居り、葛を被り、松を餌み、清水の泉を沐み、欲界の垢を濯ぎ、孔雀の咒法を修習して、奇異の験術を証し得たり。鬼神を駈ひ使ひ、得ること自在なり。

諸の鬼神を唱ひ催して曰はく、「大倭国の金の峯と葛木の峯とに椅を度して通はせ」といふ。是に神等、皆、愁へて、藤原の宮に宇御めたまひし天皇のみ世に、葛木の峯の一語主の大神、託ひ讒ぢて日さく、「役の優婆塞、謀して天皇を傾けむとす」とまうす。天皇勅して、使を遣はして捉ふるに、猶し験力に因りて輙く捕へられぬが故に、其の母を捉へき。優婆塞母を免れしめむが故に、出で来て捕へられぬ。即ち之を伊図の嶋に流しき。

時に、身は海上に浮かびて、走ること陸を履むが如し。体は万丈に踞り、飛ぶこと翥る鳳の如し。昼は皇に随ひて嶋に居て行ふ。夜は駿河の富岻の嶺に往きて修す。然れども斧鉞の誅を宥れて朝の辺に近づかむことを庶ふが故に、殺剣の刃に伏して、富岻に上る。斯の嶼に放たれて、憂ひ吟ふ間に、三年に至れり。是に慈びの音に乗り、大宝の元年の歳の辛丑に次る正月に、天朝の辺に近づき、遂に仙と作りて天に飛びき。

吾が聖朝の人、道照法師、勅を奉りて、法を求めむとして太唐に往きき。法師、五百の虎の請を受けて、新羅に至り、其の山中に有りて法花経を講じき。時に虎衆の中に人有り。倭語を以て問を挙げたり。法師、「誰そ」と問ふに、役の優婆塞なりき。法師、「我が国の聖人なり」と思ひて、高座より下りて求むるに无し。彼の一語主の大神は、役の行者に咒縛せられて、今に至るまで解脱せず。其の奇すしき表を示ししこと多数にして繁きが故に略すらくのみ。誠に知る。仏法の験術広大なることを。帰依する者は必ず証得せむ。

【現代語訳】

役優婆塞と呼ばれた在俗の僧は、賀茂の役公で、今の高賀茂朝臣はこの系統の出である。大和国葛城上郡茅原の人である。生まれつき賢く、博学の面では近郷の第一人者であった。仏法を心から信じ、もっぱら修行につとめていた。この僧はいつも心の中で、五色の雲に乗り、果てしない大空の外に飛び、仙人の宮殿に集まる千人たちといっしょになって、永遠の世界に飛び、百花でおおわれた庭にいこい、いつも心身を養う霞など、霊気を十分に吸うことを願っていた。

このため、初老を過ぎた四十余歳の年齢で、なおも岩屋に住んでいた。葛で作ったそまつな着物を身にまとい、松の葉を食べ、清らかな泉で身を清めるなどの修行をした。これらによって種々の欲望を払いのけ「孔雀経」の呪法を修め、不思議な験力を示す仙術を身につけることができた。また鬼神を駆使し、どんなことでも自由自在になすことができた。

多くの鬼神を誘い寄せ、鬼神をせきたてて、「大和国の金峯山と葛城山との間に橋を架け渡せ」と命じた。そこで神々はみな嘆いていた。藤原の宮で天下を治められた文武天皇の御代に、葛城山の一言主の大神が、人にのり移って、「役優婆塞は陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている」と悪口を告げた。天皇は役人を差し向けて、優婆塞を逮捕しようとした。しかし彼の験力では簡単にはつかまらなかった。そこで母をつかまえることとした。すると優婆塞は、母を許してもらいたいために、自分から出てきて捕らわれた。朝廷はすぐに彼を伊豆の島に流した。

伊豆での優婆塞は、時には海上に浮かんでいることもあり、そこを走るさまは陸上をかけるようであった。また体を万丈もある高山に置いていて、そこから飛び行くさまは大空を羽ばたく鳳凰のようでもあった。昼は勅命に従って島の内にいて修行し、夜は駿河国の富士山に行って修行を続けた。さて一方、優婆塞は極刑の身を許されて、都の近くに帰りたいと願い出たが、一言主の大神の再度の訴えで、ふたたび富士に登った。こうしてこの島に流されて苦しみの三カ年が過ぎた。朝廷の慈悲によって、特別の赦免があって、大宝元年正月に朝廷の近くに帰ることが許された。ここでついに仙人となって空に飛び去った。

わが国の人、道照法師が、天皇の命を受け、仏法を求めて唐に渡った。ある時、法師は五百匹の虎の招きを受けて、新羅の国に行き、その山中で「法華経」を講じたことがある。その時、講義を聞いている虎の中に一人の人がいた。日本のことばで質問した。法師が、「どなたですか」と尋ねると、それは役優婆塞であった。法師は、さては「わが国の聖だな」と思って、講座から下りて探した。しかしどこにも見当たらなかった。例の一言主大神は、役優婆塞に縛られてから後、今に至ってもその縛めは解けないでいる。この優婆塞が不思議な霊験を示した話は、数多くあって掲げつくせないので、すべて省略することにした。仏法の呪術の力は広大であることがよくわかる。仏法を信じ得る人には、この術を体得できることがかならずあるということを実証するだろう。

(出典: 中田祝夫『日本霊異記』全訳注 岩波文庫)

『日本霊異記』が役小角の出自であるとする賀茂氏という氏族は、

1. 神武東征において、神武天皇を熊野から大和の橿原へと導いた八咫烏(賀茂建角身命)を先祖とし、京都の賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社)と深い関係をもつ、山城国(京都)葛野を本拠地にする天神系の賀茂氏

2. 大物主(大国主の幸魂・奇魂)を祖先とし、一言主を氏神とし、大和国(奈良)葛城を本拠地とする地祇系の賀茂氏(三輪氏)


の二つがあり、この二つの賀茂氏は、同一の氏族であるとも、別個の氏族であるとも言われています。

古代の氏族。鴨、加茂とも称し、同姓の氏族が各地に分布するが、山城国(京都府)葛野、大和国(奈良県)葛城を本拠とする二氏が有名である。記紀などの古伝承によれば、前者は神武東遷伝説にみえる八咫烏を祖とする葛野主殿県主であり、本来は薪炭・水を朝廷に供することを任務とした。律令体制下では主殿寮主水司に属した。また『山城国風土記』逸文により賀茂神社(京都市)との深い関係が考えられる。後者は大国主命の子孫大田田根子の後裔大賀茂都美を祖とし、三輪氏と同族とされている。『新撰姓氏録』逸文によれば、賀茂神社(奈良県御所市)を奉斎し、賀茂と称したとある。姓は君で684年(天武天皇13)に朝臣となる。葛野・葛城の両賀茂氏の関係についてはさだかではない。

(出典: 『日本大百科全書』「賀茂氏」の項目、歴史学者関和彦氏による記述)

出自に関する諸説

山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある。『山城国風土記』逸文では、賀茂県主の祖の賀茂建角身命は神武天皇の先導をした後、大和の葛城を通って山城国へ至ったとしている。しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もある。

(出典: Wikipedia「賀茂氏」)

役小角が、八咫烏や大国主(大物主)を祖先とする賀茂氏の出身であるという伝承は、役小角の本質を象徴的に表しており、大変興味深いものです。

なぜならば、役小角が開いたとされる山岳修行のための「大峯奥駈道」(おおみねおくがけみち)は、奈良県吉野にある修験道の総本山金峯山寺と和歌山県の熊野本宮大社とを結ぶ大峰山系の縦走ルートなのですが、この尾根伝いの険しい山道は、八咫烏が神武天皇を熊野から、吉野、宇陀を経由して、大和の橿原へと導いた経路とほぼ重なると考えられるからです。(大峯山系より若干東側の大台ケ原を通過したという伝承もありますが、いずれにしても、烏が先導したとする記紀の描写は、見晴らしのきく尾根伝いを進むルートであったことを暗示しています。)


(画像出典: 奈良県立十津川高等学校 吉野熊野学)


(画像出典: 宮崎神宮)


(奈良県吉野、金峯山寺)


(和歌山県、熊野本宮大社)

熊野から吉野にいたるこのルートは、神武天皇による大和の征服から律令体制成立へとつながる、古代日本の入口となりましたが、同時に、吉野から熊野にいたるこの同じルートが、律令体制が瓦解し中世日本へと移行する、古代日本の出口ともなりました。

八咫烏や大国主の末裔とされる役小角は、律令国家が立ち上がろうとしていた白鳳時代に、すでにその次に立ち現れる新しい時代の先導者として、「地祇」たちが勃興する時代への道を、一人、山中に切り開き準備していたのだと言うことができます。

生前には、朝廷に対する反逆者と見なされた役小角ですが、平安時代も末期になると、その位置づけは大きく変貌し、修験道は、皇室を含めた都人たちの尊敬と憧憬の対象とされるようになります。

大峯行ふ聖こそ、あはれに尊きものはあれ、法華経誦する声はして、確かの正体まだ見えず

(出典: 後白河上皇『梁塵秘抄』189)

熊野という修験道と神仏習合の聖地を、紀伊路と呼ばれる紀伊半島の西海岸を巡るルートを使って、上皇たちが幾度となく訪れるようになります。白河上皇は9回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回の熊野詣を敢行しました。

熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず

(出典: 後白河上皇『梁塵秘抄』256)

熊野へ参らむと思へども、徒歩より参れば道遠し、すぐれて山きびし、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ羽たべ若王子

(出典: 後白河上皇『梁塵秘抄』258)

熊野のみならず、修験道の道場は、伊豆山の走湯権現を筆頭に全国各地に開かれていきました。

四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士の川、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生と讃岐の志度の道場とこそ聞け

(出典: 後白河上皇『梁塵秘抄』310)

役小角没後1100年であるとされた江戸時代の1799年には、光格天皇が「神変大菩薩」の諡を役小角に贈りました。

このように、役小角が一人切り開いた道は、天皇や上皇や貴族や武家や庶民という、あらゆる社会階級の日本人に共感をもって受け入れられるようになり、明治5年に、新政府によって修験道が禁止されたときには、修験者の数は全国で17万人にも達していたそうです。「講」と呼ばれる共同体の実践を通して、修験道は、農村の中にも深く浸透していきました。

なぜ、律令制からの脱却と並行して、修験道が、日本人によってあまねく受け入れられていったのか。

単純にいえば、日本人の心に「しっくりきた」からであると思います。

役小角が山中に開いた修験の道とは、外国から導入された「国家」の観念や制度によって一旦は覆い隠された、すべての日本人にとっての「もともとのありかた」へと、長い時間をかけてゆっくりと回帰する道のりでもありました。それは、血を流すことなく、徹底して「非政治」的なやりかたで行われた、「政治」に対する静かなレジスタンスでもありました。

次回、引用した『続日本紀』と『日本霊異記』の記述の分析を通して、日本という「国家」の構造をより鮮明に浮き彫りにします。
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