歴史を形作る目に見えない力について(7)
根底からの力が出づる場所。
前回の記事で見たように、支那事変の勃発直前に文部省が発行したパンフレット、『国体の本義』は、中国大陸で生まれた「王土王民」思想を日本列島に人為的に移植することによって始まった古代の律令体制を、「現御神にまします天皇を中心とする古の精神に復さんとする宏謨」として賛美した上で、徳川慶喜による大政奉還や大名たちによる版籍奉還と、記紀が描く大国主による「国譲り」との間の相似性を指摘していました。
このことは、『国体の本義』が、律令体制と、律令体制を回帰すべき理想とみなした明治体制が、「天神」(天皇及び公家)たちの時代である一方、鎌倉時代から江戸時代にかけての武家政権が、大国主に代表されるような「地祇」(土着の豪族)たちの時代であるという認識に立っていたことを意味します。
その上で、『国体の本義』は、武家政権という「地祇」たちの時代を、「我が国体に反する政治の変態」と断じ、「再び中世以降の如き失体なからんことを望むなり」という言葉を明治天皇のものとして引用し、律令体制や明治体制のような、「天神」らが一元的に支配する体制こそが、日本の本来あるべき姿であるという考えを示していました。
このように、「地祇的な原理」を軽視し、「天神的な原理」に一方的に傾斜していくことこそが、「皇国史観」や「国家神道」が示す顕著な特徴なのであり、この傾向は、現在の神社関係者や右派を標榜する人々の間にも、広く蔓延しています。
しかし、私たちにとって回帰すべき場所があるとするならば、その場所は、歴史や心のもっとも古層に位置していなければならないはずです。
歴史の舞台に途中から出現してきた「天神的な原理」よりもむしろ、日本列島の上にもともとから存在していた「地祇的な原理」こそが、私たちが立ち返るべきおおもとの場所なのであり、「歴史を形作る目に見えない力」として、歴史と心の最深部から、現在の私たちのあり方にもなにがしかの影響力をおよぼしています。
「天神的な原理」のように歴史や意識の発展の途上に生じた、ある特定の時代や体制を切り取って理想化してしまうことの弊害は、それとは異なる時代や体制を、あるべからざる「変態」と見なすようになり、国家や社会の硬直化を招いてしまうことです。
それとは対照的に、私たちが「地祇的な原理」に立ち返り、「無意識」「非政治」「自然」という、歴史と心が発生する黎明の領域に降り立ったとしても、「意識」「政治」「人為」という領域にあとから生じた「天神的な原理」を排除することにはなりません。
なぜならば、私たちが言葉の本当の意味で歴史と心の「根底」に立つとき、その上部に積み重なったものを、大らかに受容し包摂することになるからです。
その点で、「地祇的な原理」とは、「天神的な原理」をひたすら悪しきものとして排除しようとする、単なる左翼的原理とは異なっています。
むしろ、「地祇的な原理」という土壌に深く根を下ろしてこそ、「天神的な原理」は、そこから豊かな養分を得て、永く華やかに穏やかに咲き誇ることができます。
律令制の導入が完成し、「天神的な原理」による一元的な支配が確立しつつあった白鳳時代に、ひたすら山にこもり、「無意識」「非政治」「自然」の中に身をひたして、修験道の開祖となった役小角と、1937年文部省発行のパンフレット、『国体の本義』が掲げていたような皇国史観(天神的な原理)が日本を覆い尽くしていた戦時中に、ナショナリズムをも相対化してしまうような、「自他平等」「怨親平等」という仏教思想に傾倒していった松井石根陸軍大将の間に、私たちは、ある相似性を認めることができます。
この両者が、伊豆山という役小角ゆかりの修験道の道場で結ばれていることは、決して偶然であるとは思われません。
根底からわき「出づ」る、「歴史を形作る目に見えない力」が、この両者を結びつけています。
と、古事記が万葉仮名で、日本最古の和歌とされる須佐之男の歌を記したように、そもそも「伊豆」という地名は、「出づ」という動詞に由来すると言われています。
「伊豆」から何が「出づ」るのか。
「地祇的な原理」です。
このことは、『国体の本義』が、律令体制と、律令体制を回帰すべき理想とみなした明治体制が、「天神」(天皇及び公家)たちの時代である一方、鎌倉時代から江戸時代にかけての武家政権が、大国主に代表されるような「地祇」(土着の豪族)たちの時代であるという認識に立っていたことを意味します。
その上で、『国体の本義』は、武家政権という「地祇」たちの時代を、「我が国体に反する政治の変態」と断じ、「再び中世以降の如き失体なからんことを望むなり」という言葉を明治天皇のものとして引用し、律令体制や明治体制のような、「天神」らが一元的に支配する体制こそが、日本の本来あるべき姿であるという考えを示していました。
このように、「地祇的な原理」を軽視し、「天神的な原理」に一方的に傾斜していくことこそが、「皇国史観」や「国家神道」が示す顕著な特徴なのであり、この傾向は、現在の神社関係者や右派を標榜する人々の間にも、広く蔓延しています。
しかし、私たちにとって回帰すべき場所があるとするならば、その場所は、歴史や心のもっとも古層に位置していなければならないはずです。
歴史の舞台に途中から出現してきた「天神的な原理」よりもむしろ、日本列島の上にもともとから存在していた「地祇的な原理」こそが、私たちが立ち返るべきおおもとの場所なのであり、「歴史を形作る目に見えない力」として、歴史と心の最深部から、現在の私たちのあり方にもなにがしかの影響力をおよぼしています。
「天神的な原理」のように歴史や意識の発展の途上に生じた、ある特定の時代や体制を切り取って理想化してしまうことの弊害は、それとは異なる時代や体制を、あるべからざる「変態」と見なすようになり、国家や社会の硬直化を招いてしまうことです。
それとは対照的に、私たちが「地祇的な原理」に立ち返り、「無意識」「非政治」「自然」という、歴史と心が発生する黎明の領域に降り立ったとしても、「意識」「政治」「人為」という領域にあとから生じた「天神的な原理」を排除することにはなりません。
なぜならば、私たちが言葉の本当の意味で歴史と心の「根底」に立つとき、その上部に積み重なったものを、大らかに受容し包摂することになるからです。
その点で、「地祇的な原理」とは、「天神的な原理」をひたすら悪しきものとして排除しようとする、単なる左翼的原理とは異なっています。
むしろ、「地祇的な原理」という土壌に深く根を下ろしてこそ、「天神的な原理」は、そこから豊かな養分を得て、永く華やかに穏やかに咲き誇ることができます。
律令制の導入が完成し、「天神的な原理」による一元的な支配が確立しつつあった白鳳時代に、ひたすら山にこもり、「無意識」「非政治」「自然」の中に身をひたして、修験道の開祖となった役小角と、1937年文部省発行のパンフレット、『国体の本義』が掲げていたような皇国史観(天神的な原理)が日本を覆い尽くしていた戦時中に、ナショナリズムをも相対化してしまうような、「自他平等」「怨親平等」という仏教思想に傾倒していった松井石根陸軍大将の間に、私たちは、ある相似性を認めることができます。
この両者が、伊豆山という役小角ゆかりの修験道の道場で結ばれていることは、決して偶然であるとは思われません。
根底からわき「出づ」る、「歴史を形作る目に見えない力」が、この両者を結びつけています。
夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁
(八雲立つ 出雲 八重垣 妻蘢みに 八重垣作る その八重垣を)
と、古事記が万葉仮名で、日本最古の和歌とされる須佐之男の歌を記したように、そもそも「伊豆」という地名は、「出づ」という動詞に由来すると言われています。
「伊豆」から何が「出づ」るのか。
「地祇的な原理」です。
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