歴史を形作る目に見えない力について(3)

地底の龍を召喚すべき時が来た。
個々の人間の内側に「意識」の領域と「無意識」の領域があるように、人間の集合体に他ならない国家や社会の内部にも「意識」の領域と「無意識」の領域が存在します。

そして、国家や社会の「意識」の領域のみならず「無意気」の領域も、歴史形成の動因として、大きく、深く、作用してきました。

国や社会における「意識」の領域の中心を占めるものは「政治」ですから、国家や社会における「無意識」の領域にあるものを総称して「非政治」と名付けることができます。

また、「意識」や「政治」の世界を支配するのは人間の意志ですが、人間が心の中に抱える「無意識」の世界は、自然と連続し一体であるため、「意識」と「無意識」、「政治」と「非政治」という二つの領域を、おおまかに「人為」と「自然」という概念で捕らえ直すことも可能です。

つまり、国家や社会の中には、次のような対をなす二つの領域が存在しています。

「意識」と「無意識」
「政治」と「非政治」
「人為」と「自然」

これらの関係をどう考えるのか。国や文化や宗教によって大きく異なりますが、大きくは次の二つの類型に分類することができます。

1. キリスト教(や西洋思想)のように、「無意識」を罪に汚れた「悪」の根と見なし、「意識」によってこれを制御しなければならないと考える。

2. 仏教(や東洋思想)のように、人間の「無意識」の根底にあるものは元来清らかなものであるが、「意識」によって歪められていると考える。

「意識」や「政治」や「人為」の世界を中心におくのか、それとも、「無意識」や「非政治」や「自然」を中心におくのかで、国の成り立ちや、人々の生き方は大きく変わってきます。

1の見方に立てば、「意識」や「政治」や「人為」を司る社会的に上位の人々が、下位にある人々を、一方向的に制御しなければならないという考えに至るでしょうし、2の見方に立てば、「無意識」や「非政治」や「自然」の側に位置する社会的に下位の人々が、時には、「意識」や「政治」や「人為」を司る社会的に上位にある人々を糺していかなければならないという発想も生まれます。

「無意識」や「非政治」や「自然」の領域にあるものを汚れたもの、劣ったものとみなしたキリスト教徒たちは、自分の心の中の「無意識」と格闘し、それを矯正したり、抑圧したり、排除しようとしたりするだけでは飽き足らず、世界の様々な「未開の」原住民のもとにわざわざでかけていき、「無意識」や「非政治」や「自然」の側に立とうとする彼らの土着の信仰を捨てさせ、キリスト教信仰への改宗を強要しました。

日本の神道は、明らかに仏教と同じ類型に属します。

日本という国家は、日本列島という守られた環境の中で、「無意識」や「非政治」や「自然」の領域からゆっくりと立ち上がってきた自然国家でしたが、白村江の戦いの敗戦と、戦後処理という国家的危機を迎えた白鳳時代に、戦勝国の唐から導入した律令制という制度によって、「意識的」「政治的」「人為的」に、国家というものを規定し直す必要性に迫られました。

そのときに、初めて「日本」という国号を掲げるようになりました。

良民と賤民という、国民の二区分が導入されたのもこの時代でした。

これは、一種の「グローバル化」であり、「構造改革」でした。

しかし、日本は、「意識的」「政治的」「人為的」に形成された、中華風の国家制度のままで維持されることはありませんでした。

「意識」や「政治」や「人為」の根底に隠されていた、「無意識的」「非政治的」「自然的」な力が、再浮上し、律令制によって「構造改革」される以前の、古い日本の形が次第に復元されていったのです。

それが平安時代の後期から、江戸時代の終わりまでの日本の歴史の要約です。

神道と仏教が一体化し、神仏習合を深めていったのも、「無意識」や「非政治」や「自然」の力が活発に活動していたこの時代でした。

しかし、19世紀の西洋列強との直面を通して、日本は、今度は西洋の制度を導入することによって、再び「意識的」「政治的」「人為的」に、国家を改造し、再規定する必要に迫られました。

明治維新は、白鳳時代の律令制の導入と並ぶ、二つ目に大きな、日本の「構造改革」でした。

神仏習合の絆は解かれ、白鳳時代に律令制の導入と並行して編まれた日本書紀や古事記によって、神道は、「意識的」「政治的」「人為的」に純化、再整備され、「無意識的」「非政治的」「自然的」な要素は、神道の中から排除されたり軽視されていきました。

第二次世界大戦における敗戦によって、日本は、戦勝国であるアメリカの主導する戦後改革によって、再々度、「意識的」「政治的」「人為的」に、国家制度を改変させられました。三つ目に大きな、日本の「構造改革」でした。

この戦後日本の経緯は、白村江の戦いの敗戦によって、戦勝国、唐の政治制度を導入した白鳳時代に酷似しています。

現在、TPP発効が目前に迫っていますが、これが発効すれば、四つ目の大きな日本の「構造改革」ということになるでしょう。

あるいは、この「構造改革」を、欧米が主導するグローバル化の徹底として、二つ目の「構造改革」である明治維新や、三つの「構造改革」である戦後改革の延長線上に捕らえることも可能でしょう。

このように明治維新から、わずか150年の間に、大きな「構造改革」を重ねてきた(重ねつつある)日本ですが、この間にも、日本という国家や社会の根底には、「無意識的」「非政治的」「自然的」な力が消滅することなく、密かに胎動していたはずです。

個人の中に「無意識など存在しない」とは言えないように、国家や社会の内部にも、「無意識など存在しない」とは言えないのですから。

この「無意識」「非政治」「自然」の力は、これからも沈黙したまま、日本の解体と消滅を見届けるだけなのか。

あるいは、かつて、律令制という「意識的」「政治的」「人為的」な国家制度を、500年間の年月をかけて打ち崩した来歴をもつ、地底に横たわる龍にもなぞらえられるべき、「無意識的」「非政治的」「自然的」な力は、再び、少数の為政者たちの小賢しい「陰謀」を乗り越えて、日本の本来の姿を取り戻していくのか。

「政治」が「政治」を糾し得る時代は過ぎ去りました。

一つの「政治」が、他の「政治」に置き換わる、「政権交代」と呼ばれる小手先の療法によっては、現代の日本の政治の病根は根治できません。

「あれがだめだからこれ、これがだめだからあれ」という既成のカタログからの取捨選択によっては、もはや日本はどうにも救われません。

必要なのは、どの陣営であれ「政治」そのものが、「非政治」の広さと深みと「根底」から、圧倒的な力で、批判され、否定され、粛正され、解体され、新しく塗り替えられていくことです。

そのために求められるのは、「非政治」のエネルギーの結集です。

ここで「非政治」とは、時には無邪気に遊ぶ子どもの笑顔であり、時には魂の内奥からわきあがる感情のざわめきであり、時には大地に這いつくばって暮らしを営む人々の怒りであり、時には国家の安寧と五穀豊穣を願ってやまない天皇陛下の祈りであり、時には安倍晋三の体内に潜むがん細胞であり、時には事実をあるがままに語る人々の群れであり、時には火山からの水蒸気の噴出であり、時には大地にふりそぞぐ雨であり、時には太古から語り継がれる神話であり、時には連綿と受け継がれる伝統であり、時には人々の心を打つ音楽であったりします。

つまり、「非政治」とは、「自然」からわき起こり立ち上がるすべてのものの総称ですが、そうしたものの連携と結集が、今や「政治」を圧倒し、浄化しなくてはならない。

この、日本を浄化しうる「非政治」の広さと深みと「根底」を、私は「多元性」と呼びます。

(出典: WJFプロジェクト「「非政治」に「政治」を圧倒せしめよ」2014年10月10日 )
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