南京事件をめぐる「右翼」の矛盾

一切衆生悉有仏性。
「シナ人がー」
「チョンがー」

と隣国人を卑怯者や嘘つきやごろつきの集団として貶めながら、自国民を、シミ一つない天使の集団であるかのように称揚する。

このように、「自他平等」「怨親平等」を唱えた、松井石根の精神とは真逆の振る舞いをしながら、松井石根大将を賞賛してみせる。

松井石根を賞賛しながら、自らは決して「自他平等」の境地には立とうとはしない。

だからこそ、彼らは「右翼」でいられる。

このような矛盾した姿勢ではなく、徹頭徹尾、「自他平等」という松井石根の言葉の意味を突き詰めながら、戦争の歴史を振り返ったとき、それはどのように見えてくるのか。

おそらく、従来の「右翼」や「左翼」が語ってきたのとは全く異なる仕方で、浮かび上がってくるのではないのか。

その時、我々は、戦争の歴史を、「縄文から現代に至る我々の歴史的歩みの全体」の一部として、明鏡止水の境地で、あるがままに受け入れることができるようになるのではないのか。
動画の冒頭で、松井石根その人と、興亜観音を重ね合わせたのは、松井石根を神格化するためではない。

「自他平等」という、仏教の掲げる「平等観」に立つとき、我々は、誰しもが仏であるからである。

あなたも、私も、シナ人も、チョンも。

そのとき、あったか、なかったか、一万人か、三十万人かという問いすらも解体され、無に帰するであろう。

数十年前、極左の過激派が、興亜観音の爆破を試みたそうだが、逆に、怨親平等の興亜観音によって吹き飛ばされるのは、「右翼」「左翼」といったイデオロギーを成り立たせている、我々の「差別観」の方であろう。

以前から、黒澤明の『羅生門』という映画を、南京事件問題に光を当てる作品として紹介しているが、実はこの映画の中にも「自他平等」の平等観が表現されている。

それは、映画の最後に現れる。

男を殺した強盗、殺された男の妻、殺された男という三者が、それぞれ矛盾した証言を行ったことを検非違使の庭で目撃した木樵(きこり)が、「どいつもこいつも手前勝手だ」となじりながら、実は、他人の手前勝手をなじるその木樵当人も「手前勝手な男」であったことが判明するという仕掛けを『羅生門』は、映画の結末においている。

しかし、『羅生門』という作品が、最後に、明るい希望の階調に転じるのは、「誰しもが手前勝手である」という「平等観」を突き詰めた、まさにその瞬間でもある。

「わかんねえ、さっぱりわかんねえ」という、木樵の独白で始まるこの映画は、「人間は誰しもが手前勝手である」という「平等観」に至って、希望に転じる。

「わかんねえ、さっぱりわかんねえ」という木樵のつぶやきは、南京事件をめぐる様々な意見や証言に直面するときの、私たちのつぶやきでもある。

だから、興亜観音や映画『羅生門』が表す「平等観」は、南京事件問題に対して示唆に富んだ光を投げかけるものとして、私は観る。
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