国家における対称性の問題
左翼の果たす役割。
私は昭和九年から同十五年に至る間、自ら種の論理と呼んだ弁証法の研究に従い、これをもって国家社会の具体的構造を論理的に究明しようと志した。その動機は、当時台頭しつつあった民族主義を哲学の問題として取り上げ、従来私どもの支配されきたった自由主義思想を批判すると同時に、単なる民族主義に立脚するいわゆる全体主義を否定して、前者の主体たる個人と、後者の基体とするところの民族とを、交互否定的に媒介し、もって基体即主体、主体即基体なる絶対媒介の立場に、現実と理想の実践的統一としての国家の、理想的根拠を発見しようと考えたことにある。あくまで国家を道義に立脚せしめることにより、一方においてその理性的根拠を確保すると同時に、他方において、当時の我が国に顕著であった現実主義の非合理的政策を、できるなら少しでも規正したいと念願したわけである。
(出典: 田辺元『種の論理の弁証法』序文 1946年)
現在の日本人の弱さは、神道の抱える弱さでもあり、現状追認と、権力迎合に陥ってしまうことである。
たとえば、今年の5月26日から5月27日にかけて開かれる伊勢志摩サミットでは、TPPによって日本を破壊しようとしている国賊安倍晋三に率いられ、G7と欧州連合の各国首脳が、伊勢神宮を参拝するのだという。
よりによって、「斎庭の稲穂の神勅」を授けた皇祖神の神の宮を、日本の稲作を根絶やしにしようとする張本人が参拝する。
これほどまでの、日本という国家やその歴史に対する冒涜があるだろうか。
そのことに対する怒りは、神社関係者から全くあがってはこない。
怒るどころか、むしろ、歓迎する有様である。
伊勢だけではない。
出雲大社御遷宮奉賛会の会長は、あろうことか、TPPを推進してきた経団連の米倉弘昌がつとめていた。
よりによって「国作り」を行った神の社の刷新を、「国を壊す」輩が取り仕切っていたというのだから、情けない。
これほどまでに、「所造天下大神」(あめのしたつくらししおおかみ)の魂を汚す行為があっただろうか。
現在の日本人や神道が示すこの弱さは、対立する二つの原理が、「交互否定的に媒介」し合うことなく、一つの原理のみに傾斜し、圧倒的になることから生じている。
現在の神道からは、権力を相対化しようとする、反体制的な左翼的原理(私はこれを「地祇的原理」と名付けた)は、完全に払拭されているかに見えるが、過去の歴史を振り返れば常にそうであったわけではない。
神道は,中央集権的な律令国家の編成を目指した、天武朝から持統朝にかけての朝廷によって編纂された記紀神話に大きく依拠するから、当然のことながら体制翼賛的な性質を持つ。
しかし、その記紀神話は、被征服王朝の王である「大国主」という、ヤマト王権側からみれば「反体制的」な神に重要なポジションを与えたのであり、記紀神話はもともと、体制翼賛的な右翼的原理と、反体制的な左翼的原理のコンビネーションから成り立っていたと言える。
記紀神話の中で重要な位置を占める「国譲り」神話は、まさに、この対立する二つの原理が、「交互否定的に媒介」する物語であった。
記紀神話の中に当初から織り込まれていたこの「左翼的原理」は、平安時代の末期には、春日大社や日吉大社のような神社を拠点として展開された「強訴」(ごうそ)という反体制デモの形で歴史の表面に現れた。
参考記事: グローバリズムと神道(27)(2015年2月25日)
都にあって朝廷を取り仕切っていた藤原氏の一門は、彼らの氏神である春日大社から、ご神体の鏡を付した「春日神木」を掲げてやってくる「春日神人」(かすがじにん)らの反体制デモに、戦々恐々としていたのである。
西洋においてブルジョワ革命やプロレタリア革命などの反体制運動が起きるよりはるか以前から、日本には、このように反体制・反権力の歴史が刻まれていた。
「春日神人」を、平安当時、「国民」(こくみん)と呼んだのは何かの象徴だろうか。
国家と国民が「交互否定的に媒介」してこそ、国家は健全な姿を保ち、前に進んでいくことができる。
人の脳が右脳と左脳から成り、人の身体が右半身と左半身から成って、まっとうな全人となるように、
また人間の脳や身体と相同性をもつ神社の本殿や境内が、人間と同じ左右対称の形をとっており、阿形と吽形の左右の狛犬のいずれか一つだけを選び取ろうとすることが全くナンセンスなように、
体制や権力を肯定する右翼的原理が排除されて、体制や権力を否定する左翼的原理ばかりが圧倒的になっても、その逆に,左翼的原理が排除されて右翼的原理ばかりが圧倒的になっても、国も人も、健全な姿を保つことはできないだろう。
左右対称であることの意味は、二対のものが一体であるということである。
日本と韓国の二国は一体の国ではないので、日韓の間に「対称性の構図」は描かれてはならず、その非対称性が維持されなくてはならなかった。
参考記事:
非対称的に攻めろ(2012年4月23日)
情報戦とオセロゲーム(2012年12月8日)
浅田真央選手を守れ(5)(2012年12月17日)
しかし、日本という国家は一体である。
ならば、その内部の対称性は維持されなくてはならない。
左翼と右翼の間の関係は非対称であってはならない。
ひたすら右に傾斜して、国家の中に非対称性を作り出してしまうことではなく、左右の対称性を維持することこそが、本当の「愛国者」の務めでなくてはならない。
そのことに気づいている「愛国者」はいまだ多くはない。
TPPという国難を乗り切り、国家の一体を維持するために不可欠なのも、左右の対称性の回復なのだ。
現在の日本には、大衆を扇動して、国家が一体であるために不可欠な対称性を破壊し、非対称性へと顛落させようとする勢力が跋扈している。
そのために彼らが利用する手段は、必ず、「あれか、これか」の二項対立を突きつけてくることだ。
彼らは決して「あれも、これも」とは言わない。
「あれか、これか」。
二対のいずれかの選択を迫ることで、調和のとれた対称性を損なおうとする。
国家を礼賛する「右翼」だけでは、逆説的なことに、国家というものは保守されてはいかない。
国が国として健全に立つためには、国を否定する契機をその内部に含み持たなくてはならない。
左翼の人々は、そういう重要な役割を果たしている。
だから、国家を維持しようとする「愛国者」は、左翼の人々に、安易に「反日」のレッテルを貼って排除してはならない。
左翼の人々が果たす重要な役割を、積極的に評価し、大らかに包摂していかなくてはならない。
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