【再掲】多元性とは何か

「多元性」が、いつしか「二元性」を食い破る。
この記事は、2014年9月6日の記事「多元性とは何か」の再掲です。 当ブログのコメント欄で、さる方がこの記事を紹介してくださり、ひさしぶりに読み返してみて、我ながら「いいこと言っているなあ」と感心した記事です。

“「多元性」は、「なんでもよい」というあいまいで受容的な態度では決してなく、時には「二元的」な世界に属するものに対して、厳しい怒りや挑戦の姿勢をもって臨みます。”

甘利経済再生担当相を陥落させたジャーナリズムの姿勢が、「多元性」の側に立つものであったことを期待します。

グローバリズムに対抗するものは、「反グローバリズム」ではありません。TPPに対抗するものは、「反TPP」ではありません。グローバリズムを真の意味で食い破り、瓦解させていくものは、「多元性」です。

「多元性」にこそ、我々は付くべきであり、 そのためには、どんなに遠回りに見えても、歴史と心と生活の深層へと、深く、深く、潜るべきです。

以下、再掲記事の本文です。


「多元性」という言葉の意味について質問をいただくことがありますので、簡単に説明させていただきます。

実は、「二元性」や「多元性」については、次の記事で、既にわかりやすく説明しています。

若葉の色は、白か、黒か。

こう問われたら、ある人は言うかもしれません。

「若葉の色は、白ではない。したがって黒だ」と。

また他の人々は言うかもしれません。

「若葉の色は、黒ではない。したがって白だ」と。

正しい答えは、若葉の色は、白でもなければ、黒でもありません。

若葉の色に限らず、この世界のありとあらゆる物事は、あれかこれかという、二元的な問いを超えた場所に存在しています。

若葉の色は、無限に多様な色彩の中の一つであり、

お米の味は、無限に多様な味わいの中の一つであり、

慰安婦一人一人の物語は、無限に多様な人間の生き様の中の一つであり、

日本という国は、歴史の中に生起し、これから生起しうる無限に多様な国々の中の一つです。

しかし、現在、私たちの国には、物事を「あれかこれか」という二項対立で捉えようとする人々にあふれかえっているように見えます。

人々は言います、「君は、右翼なのか、左翼なのか」と。

人々は言います、「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か、どちらなのか」と。

二元的なものの見方は、殊に、冷戦時代を通過した戦後の日本人の脳に深く刷り込まれています。

二元的にものごとを捉える「冷戦脳」は、日本人に次のように錯覚させました。

「共産主義は悪だから、資本主義は善だ」と。

「社会主義は悪だから、自由主義は善だ」と。

「左翼は悪だから、右翼は善だ」と。

「特定アジアは悪だから、アメリカは善だ」と。

「民主党は悪だから、自民党は善だ」と。

また「冷戦脳」の持ち主たちは、次のように誤解しました。

「誰かが資本主義を批判している。だからそいつは共産主義者だ」と。

「誰かが自由主義を批判している。だからそいつは社会主義者だ」と。

「誰かが右翼を批判している。だからそいつは左翼だ」と。

「誰かがアメリカを批判している。だからそいつは特定アジアの回し者だ」と。

「誰かが自民党を批判している。だからそいつは民主党支持者だ」と。

「冷戦脳」の持ち主たちは、右翼も左翼もない立場が存在するということが理解できません。

安倍政権という亡国政権を、救国政権であるかのように人々に錯覚させているのも、この二元的なものの見方です。

二元的に物事をとらえるとき、結果として生じるのは、不毛な対立と、二つのうちの片側の立場への極端な傾斜です。

二元的なものの見方は、ものごとを救ったり守ったり解決したりするどころか、根底から損なってしまいます。

二元的なものの見方は、若葉の色も、お米の味も、慰安婦問題も、日本も、ことごとく台無しにしてしまいます。

日本が守られるとしたら、それは日本人が「あれか、これか」と問う、その二元的な思考を離脱して、多様性の中にあるがままにものごとを捉えるようになったときです。

「二元的な思考を超える」と言うと難しく聞こえますが、何も難しい事はありません。

白でも黒でもない、若葉の色を、そのまま見つめればよいのです。

(出典: WJFプロジェクト「ものごとは二元性を超えた場所にある」2014年6月6日)

上の記事の中で「多元性」は、次の文章の中に要約されています。

若葉の色に限らず、この世界のありとあらゆる物事は、あれかこれかという、二元的な問いを超えた場所に存在しています。

若葉の色は、無限に多様な色彩の中の一つであり、

お米の味は、無限に多様な味わいの中の一つであり、

慰安婦一人一人の物語は、無限に多様な人間の生き様の中の一つであり、

日本という国は、歴史の中に生起し、これから生起しうる無限に多様な国々の中の一つです。

また、「多元性」は次の記事の中でも表現されています。

事実に付かず人に付こうとするから、特定の誰それが批判されているだけで違和感を感じ腹を立てる。

事実に付かずに人に付こうとするから、「批判」を「悪口」と取り違える。

事実に付かずに人に付こうとするから、すぐに徒党を組もうとする。

事実に付かずに人に付こうとするから、自分の属する集団と、その外部の集団に対しては、二つの異なった基準で判断しようとする。

事実に付かずに人に付こうとするから、特定の誰それが語った言葉を、事実と違うことであっても鵜呑みにしてしまう。

事実に付かずに人に付こうとするから、物事が客観的に見られなくなる。

事実に付かずに人に付こうとするから、自分と異なる意見を持つ人に対して感情的な「悪口」を言ったりレッテルをはったりすることはできても、論理的に「批判」することができなくなる。

事実に付かずに人に付こうとするから、安倍信者という人々が生まれ、日本は大きな危険にさらされている。

事実に付かずに人に付こうとするから、「左翼VS右翼」「民主党VS自民党」といった二項対立に煽られる。

事実に付かずに人に付こうとするから、ある人々は「中野・三橋」一派に属し、ある人々は「上念・倉山」一派に属そうとする。

人に付くのではなく、事実に付く。

ソースを確認するという事実に対して厳正な姿勢をもっていれば、どんな人にも、どんな集団にも、どんな意見にも、等距離な客観的でニュートラルな姿勢を保つことができます。

大勢の意見に流されて、先入観に目を曇らされて、判断を誤ることも少なくなります。

人に付くのではなく、事実に付く。

互いに群れあって、既成の模範解答(ドグマ)を唱えあい、その模範解答(ドグマ)から外れた意見を持つ人々にレッテルをはったり悪口を言い合っていても意味がありません。

事実につく。

ソース(源流)をたどる。

ルーツ(根っこ)を深める。

そういう批判的な姿勢を保つことが大切だと思います。

(出典: 「人に付かず、事実に付く」2014年5月29日)

「人に付く」のが二元的な態度であり、「事実に付く」のが多元的な態度です。多元的に生きるためには、「ソース(源流)をたどる。ルーツ(根っこ)を深める。そういう批判的な姿勢を保つことが大切」になります。

「多元性」とは、若葉の色、お米の味、慰安婦一人一人の生き様、日本という国など、この世界に生起する物事や人間それ自体であり、人間の言葉が作り出す「二元性」の向こう側にひろがる「ものごとが現にそうである」場所のことです。

つまり「多元性」とは、物事が二つに分かれていく「前」にある、あるいは、物事が二つに分かれた「後」で、人間が立ち返るべき、根源的なもともとの場所のことです。

「多元的に生きる」とは、「根源に立ち返る」ことと同義です。

日本人であれば、二つの分かれた世界を離れて、根源的な原初の場所に戻ろうとする時、歴史と精神の基層にある縄文の森にまで行き着くことでしょう。

言葉を操る人間がすべからく「二元性」から無縁ではいられないように、同時に、人間は「多元性」からも無縁でいることはできません。

人間が、この世に生まれてきたときには、誰もがいまだ言葉を知らず、ひたすら「多元性」の世界のみに生きています。言葉を学び、世の中の様々な思想やイデオロギーにふれ、いろいろな立場に分かれて生きるようになった後でも、人間は「多元性」から完全に離れて生きているわけではなく、若葉の色を目にし、お米の味を味わう日常の中で、意識せずとも、「多元性」に触れ、「多元性」に取り囲まれながら生活しています。

しかし、「二元性」の世界に取り込まれて争えば争うほど、人間は、本来の出所であるはずの「多元性」から遠ざかって生きることになります。

「多元性」こそが、人間が生まれ出た元々の場所ならば、その場所に立ち戻ることこそが、言葉の最も深い意味で、「保守」的な姿勢なのであり、「保守」と名乗る必要すらない「保守」的なあり方です。

そして、「多元性」に立ち戻る事は、「二元性」に属するあらゆる思想や立場やイデオロギーを根底から相対化しますから、あらゆる思想や立場やイデオロギーに対する批判的な態度として現れます。

「多元性」は、「なんでもよい」というあいまいで受容的な態度では決してなく、時には「二元的」な世界に属するものに対して、厳しい怒りや挑戦の姿勢をもって臨みます。

自然が人間の世界に時に猛威をふるうように。

禅の師家が、二元性の世界からもの申す弟子を、情け容赦なく殴るように。

「道得也三十棒道不得也三十棒」(言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒)
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自縄自縛に陥ることなかれ

>二元的なものの見方は、殊に、冷戦時代を通過した戦後の日本人の脳に深く刷り込まれています。

別の記事のコメントも拝見しましたが、簡単に言えば、記事が二元論的なのではなく、HMさんご自身が「二元的なものの見方」にしがみついている為に、そう感じられるだけだと思います。
同様のロジック(というより「ああいえば、上祐」並の屁理屈)で「WJFプロジェクトは二元論に堕している」として論破した気になっている人が絶えませんが以下同文。

HMよ

>「多元論」vs「二元論」では「多元論」だ!
>非常に二元論的な記事であると感じました。


一人の僧が趙州和尚に問うた。
「如何なるか是れ祖師西来意」(大意:達磨大師が遠路、インドから中国へと来られた真意は何なのでしょうか?)
趙州和尚は答えた。
「庭前の柏樹子」
また僧は続けて問うた。
「和尚、境を将て人に示すこと莫かれ」(大意:私は禅とは何か尋ねているのです。心の外の物で答えないで下さい)
趙州和尚は続けて答えた。
「我れ境を将て人に示さず」(大意:私は心の外の物で答えてなどおりません)
僧は再度問うた。
「如何なるか是れ祖師西来意」
趙州和尚は、再度答えた。
「庭前の柏樹子」

「多元性」が「二元性」を食い破った例。

No title

「多元論」vs「二元論」では「多元論」だ!
非常に二元論的な記事であると感じました。


「多元」≒日本文化(神道、仏教思想などに基づく)
「二元」≒近代西欧文明(キリスト教文明などに基づく)

「多元」は大変素晴らしいが、他方で「二元」には否定しがたいパワー(数学、合理、対称性、ロゴスなど)があり「多元」を下敷き・栄養分・安全弁として成長する面があるのではないかと思います。

貴ブログは、「西欧近代」の発展成長に大いに貢献していると思いました。
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