「南京虐殺」関連動画・序章の概略
問題提起となる動画の骨格。
動画は、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、アカデミー賞名誉賞を受賞した、1950年の黒澤明の映画『羅生門』の原作となった、芥川龍之介の短編小説『藪の中』の紹介から始まる。
舞台は平安時代。藪の中で発見された男の死体を巡って、下手人として検非違使に捕縛された男と、死んだ男の妻と、巫女の口を借りて語る男の亡霊の三者が、それぞれ事件の真相を語ろうとする。
下手人は証言する。「手籠めにした女に彼女の夫と決闘するように乞われて、男を殺したのだ」
女は告白する。「夫の前で辱められた自分に向けられた夫のさげすむような目を見て、心中を決意し夫を殺したのだ」
死んだ男は巫女の口を借りて証言する。「妻に裏切られて絶望し、自害したのだ」
三者の証言は食い違っており、結局、誰が真相を語っているのか明かされないまま小説はとじられる。
この作品を通して、芥川龍之介は、「客観的な事実など存在しない。時間や空間の特定の狭い範囲に置かれて生きる人間が、各自のエゴというフィルターを通して構成しなおした『物語』しか、この世には存在しないのだ」と言おうとしているかのようである。
(とても短い短編ですので、興味のある方は読んでみてください。)
青空文庫: 芥川龍之介『藪の中』
いわゆる「南京虐殺」問題は、この短編小説に似てはいないだろうか。
証言は互いに食い違っている。
中国人であれば、悪しき日帝から人民を解放した中国共産党に正統性を付与するための物語として、「南京虐殺」を語ろうとするだろう。
アメリカ人であれば、残虐なファシズムに対する自由と民主主義の勝利の物語として、「南京虐殺」を引き合いにだすだろう。
彼らの勝利が輝かしいものであるためには、「南京虐殺」の闇はいっそう深いものでなくてはならないだろう。
戦後民主主義や共産主義に同調する日本人であれば、アメリカ人や中国人と同様、「南京虐殺」を悪しき大日本帝国の闇の深さを示す例として語ろうとするだろう。
戦後体制に背を向けて、単に大日本帝国を美化しようとする右派の日本人であれば、「南京虐殺」を完全なる虚構として論じようとするだろう。
人はそれぞれ、各自のエゴを慰撫するための物語を形成しようとするだろう。
しかし、ここで、私たちが、それぞれの「エゴ」を離れて、あたかも神の視座から、当時の南京市で起きていた出来事を捉えようと試みることは可能だろうか。
仮に、私たちが、神の視座に立つことはできなくとも、私たちが「客観的な事実だ」と信じる、それぞれの「物語」が、各自のエゴによってゆがめられている可能性を自覚することは可能だろうか。
舞台は平安時代。藪の中で発見された男の死体を巡って、下手人として検非違使に捕縛された男と、死んだ男の妻と、巫女の口を借りて語る男の亡霊の三者が、それぞれ事件の真相を語ろうとする。
下手人は証言する。「手籠めにした女に彼女の夫と決闘するように乞われて、男を殺したのだ」
女は告白する。「夫の前で辱められた自分に向けられた夫のさげすむような目を見て、心中を決意し夫を殺したのだ」
死んだ男は巫女の口を借りて証言する。「妻に裏切られて絶望し、自害したのだ」
三者の証言は食い違っており、結局、誰が真相を語っているのか明かされないまま小説はとじられる。
この作品を通して、芥川龍之介は、「客観的な事実など存在しない。時間や空間の特定の狭い範囲に置かれて生きる人間が、各自のエゴというフィルターを通して構成しなおした『物語』しか、この世には存在しないのだ」と言おうとしているかのようである。
(とても短い短編ですので、興味のある方は読んでみてください。)
青空文庫: 芥川龍之介『藪の中』
いわゆる「南京虐殺」問題は、この短編小説に似てはいないだろうか。
証言は互いに食い違っている。
中国人であれば、悪しき日帝から人民を解放した中国共産党に正統性を付与するための物語として、「南京虐殺」を語ろうとするだろう。
アメリカ人であれば、残虐なファシズムに対する自由と民主主義の勝利の物語として、「南京虐殺」を引き合いにだすだろう。
彼らの勝利が輝かしいものであるためには、「南京虐殺」の闇はいっそう深いものでなくてはならないだろう。
戦後民主主義や共産主義に同調する日本人であれば、アメリカ人や中国人と同様、「南京虐殺」を悪しき大日本帝国の闇の深さを示す例として語ろうとするだろう。
戦後体制に背を向けて、単に大日本帝国を美化しようとする右派の日本人であれば、「南京虐殺」を完全なる虚構として論じようとするだろう。
人はそれぞれ、各自のエゴを慰撫するための物語を形成しようとするだろう。
しかし、ここで、私たちが、それぞれの「エゴ」を離れて、あたかも神の視座から、当時の南京市で起きていた出来事を捉えようと試みることは可能だろうか。
仮に、私たちが、神の視座に立つことはできなくとも、私たちが「客観的な事実だ」と信じる、それぞれの「物語」が、各自のエゴによってゆがめられている可能性を自覚することは可能だろうか。
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