3年前を振り返る(1)
戦いに備えよ。
3年前の2013年7月の参院選の
6年間の任期満了に伴い、議席の半数が改選される参議院選挙を夏に控える今年2016年は、同じく夏に参院選を控えていた、安倍政権が発足した直後の2013年を彷彿とさせます。
安倍政権は、衆議院を解散して衆参同日選挙を計画しているとの報道も流れていますが、3年という月日が経過して、再び、私たちは重大な局面を迎えようとしています。
自民党の圧勝という、日本人の大敗北に終わった2013年7月の参院選の後、私は次のように記しました。
そこで、今後の戦いに備えていくため、2012年12月の安倍政権発足の頃から、2013年7月の参院選に至る時期の、3年前のWJFプロジェクトの古い記事をいくつか選んで再掲し、あの頃を振り返っておきたいと思います。
今日、再掲するのは、民主党から自民党への政権交代が実現した2012年12月16日の衆議院選挙直前の記事、「『真の保守』とは何か」(2012年12月7日)です。
自民党の圧勝が予想されていた衆院選をひかえ、
「民主党(悪)VS自民党(善)」
という保守を標榜する人たちの間に蔓延していた(今も蔓延している)単純な善悪二元論に、警戒心を抱いていたことがうかがえます。
安倍政権は、衆議院を解散して衆参同日選挙を計画しているとの報道も流れていますが、3年という月日が経過して、再び、私たちは重大な局面を迎えようとしています。
自民党の圧勝という、日本人の大敗北に終わった2013年7月の参院選の後、私は次のように記しました。
今回安倍政権を支持し自民党に投票した人たちも、これが反自民勢力の敗北ではなく、日本全体の敗北であったことをまもなく知ることになるでしょう。私たちが警告してきたことを、ご自分の目で直接見、ご自分の体で直接味わうことになります。
嘘だと思うのならば、1年後、2年後、数年後にこのブログに戻ってきて古い記事を読み返してみるとよい。いや、わざわざ一年も待たなくともよい。今年の1月以降に私が書いてきたことを今読み返してみればよい。TPPにせよ、消費税増税にせよ、私が書いてきたことは、あらかたそのとおりになってきたではありませんか。
(出典: WJFプロジェクト「日本の終わりのはじまり」2013年7月21日 )
そこで、今後の戦いに備えていくため、2012年12月の安倍政権発足の頃から、2013年7月の参院選に至る時期の、3年前のWJFプロジェクトの古い記事をいくつか選んで再掲し、あの頃を振り返っておきたいと思います。
今日、再掲するのは、民主党から自民党への政権交代が実現した2012年12月16日の衆議院選挙直前の記事、「『真の保守』とは何か」(2012年12月7日)です。
自民党の圧勝が予想されていた衆院選をひかえ、
「民主党(悪)VS自民党(善)」
という保守を標榜する人たちの間に蔓延していた(今も蔓延している)単純な善悪二元論に、警戒心を抱いていたことがうかがえます。
「真の保守」とは何か
日本人と、外国人(特に西洋人)のものの考え方に顕著な違いがあるとするならば、それは、日本人は「二元性を嫌う」ということではないかと思います。
物事を「あれか、これか」の二つにはっきりと峻別した上で、片方を選び、他方を排除する。これは特にキリスト教の影響の強い西洋文明に顕著に見られる考え方です。
日本人が伝統的に「あれか、これか」といった、二元的思考を持たなかったこと、もっと素朴に自然にシンプルに考える人々であったことは、日本には、西洋に見られる宗教戦争のように信条の違いによって血と血を洗うような歴史や、信条内容の違いにより誰かを死に追いやる異端審問のようなものが存在しなかったという事実にもはっきりと現れています。「日本のアニメには明確な善人と悪人が登場しない」といった指摘もよく耳にします。
このように二元性を嫌う日本の伝統的風土の中で「保守」とはどのようなあり方のことをさすのでしょうか。
「保守VS革新」
「保守VS反日」
「右翼VS左翼」
といった二項を立てて、片方を是とするというのは、日本の伝統的な思考でないことは、既にお解りいただけると思います。
「真正保守」という言葉がありますが、自らの正統性を強く標榜し、他の立場を「偽物」として排除する教条主義的で偏狭な響きを持つこの言葉は、その真正性の主張とは裏腹に、むしろ二元性を好む西洋人やキリスト教の姿勢に近いものであり、日本の伝統的精神を反映してはいないように思われます。
すると、日本人の伝統的な精神の姿に合致した「真の保守」のあり方とはどのようなものでしょうか。
この問題を突き詰めていくと、「保守」という、私たちを特定のあり方に固定したり、条件づけたりする言葉そのものが抜け落ちて、ただ「日本人が日本に対して真摯に責任を果たす」ということだけが残るのではないかと思います。ここでいう「日本」とは、2012年現在、私たちが目にしている時間的に切り取られた「日本」のみならず、その歴史の黎明から、子々孫々の代に至るまでのすべての時代を包摂した一つの共同体としての「日本」を指します。その一員である今の私たちが、時代を超えた共同体としての「日本」に対してどう責任を果たすのかという問題ですから、こう考えると、単なる「反日」や「左翼」への反作用としてではなく、より広い客観的な視野をもって、現在日本が直面する個々の問題と取り組めるようになるのではないかと思います。
「保守」が、「左翼」や「反日」に対する反作用やアンチテーゼに過ぎないものであれば、将来必ず新しい反作用を招きます。そうならないためにも、もっと深い根底に根ざし、二元的な枠組みを超えた「保守」のあり方を私たちは探るべきでしょう。