左右の分水嶺としての大日本帝国
媒介する思考が求められている。
昨年の暮れ、WJFプロジェクトは、大変光栄なことに、青山学院大学総合文化政策学部教授、中野昌宏氏から次のような感想をいただきました。
中野氏は、ツイッターで安倍政権を批判されている方ですが、中野氏に負けず劣らず、安倍政権や自民党やインチキ保守勢力を辛辣に批判してきたWJFプロジェクトであっても、わずかでも日本を礼賛したり、歴史問題や領土問題に関して韓国や中国に抗弁しようとする姿勢を見せれば、左派の人たちからは、「キモい」とみなされてしまうようです。
自国のナショナリズムを盲目や狂信として嘲り嗤いながら、他国のナショナリズムから発信される意見に日本人が抗弁することを一切認めず、他国民のナショナリズムに安易に迎合していく左派の人々の姿勢は矛盾していますし、同様に、自国のナショナリズムは礼賛するのに、他国のナショナリズムを盲目や狂信として嘲り嗤う右派の人々の姿勢も矛盾しています。
正しくは、他国民のナショナリズムを尊重するならば、自国民のナショナリズムも等しく尊重すべきですし、他国民のナショナリズムを批判するならば、自国民のナショナリズムも等しく批判すべきです。
中野氏のプロフィールに「反大日本帝国」という言葉が掲げられていましたので、現在は使用していないツイッターのアカウントを使って、次のような問いを投げかけてみましたが、質問をリツイートしていただいたものの、結局、答えはいただけませんでした。
執筆中の「グローバリズムと神道」や、制作中の南京虐殺に関する動画に関連のある問いですので、下のように、より長い文章に敷衍してみました。
明治維新以来の、いや、さらに元をたどれば、日本列島に農耕がもたらされた弥生時代以来の、さらに元をたどれば、おそらくは人類が誕生して以来の、「文明」という、普遍性を志向する人間の性向と、「民族性」という、特殊性の中にとどまろうとするという人間の性向の、二つの絡み合いの問題を解き明かさなければ、その延長線上に展開するグローバリズムの問題も正しく克服していくことはできないのではないかと考えます。
従って、従来の型どおりの「右翼」も、従来の型どおりの「左翼」も、グローバリズムや安倍政権に正しく対峙することはできません。
既成の模範解答(イデオロギー)に落ち込むことを注意深く避ける、批判的で、媒介的で、クリエイティブな思考がもとめられています。
大日本帝国(明治体制)という時代は、「縄文から現代に至る日本人の歴史的歩みの総体」の一部にすぎません。
自分の身体の一部をことさら愛したり嫌ったりする姿勢がどこか不健全で病的なように、日本史の一時代を切り取って、ことさらこれを礼賛したり否定したりしてみせる姿勢も、不健全で病的なものであると思います。
すばらしき日本よ永遠なれ https://t.co/UqKlNxZbxk
これはキモい
— 中野昌宏 Masahiro Nakano (@nakano0316) 2015, 12月 27
中野氏は、ツイッターで安倍政権を批判されている方ですが、中野氏に負けず劣らず、安倍政権や自民党やインチキ保守勢力を辛辣に批判してきたWJFプロジェクトであっても、わずかでも日本を礼賛したり、歴史問題や領土問題に関して韓国や中国に抗弁しようとする姿勢を見せれば、左派の人たちからは、「キモい」とみなされてしまうようです。
自国のナショナリズムを盲目や狂信として嘲り嗤いながら、他国のナショナリズムから発信される意見に日本人が抗弁することを一切認めず、他国民のナショナリズムに安易に迎合していく左派の人々の姿勢は矛盾していますし、同様に、自国のナショナリズムは礼賛するのに、他国のナショナリズムを盲目や狂信として嘲り嗤う右派の人々の姿勢も矛盾しています。
正しくは、他国民のナショナリズムを尊重するならば、自国民のナショナリズムも等しく尊重すべきですし、他国民のナショナリズムを批判するならば、自国民のナショナリズムも等しく批判すべきです。
中野氏のプロフィールに「反大日本帝国」という言葉が掲げられていましたので、現在は使用していないツイッターのアカウントを使って、次のような問いを投げかけてみましたが、質問をリツイートしていただいたものの、結局、答えはいただけませんでした。
大日本帝国が「悪」であるとして、その「悪」はどこから由来したものでしょうか。
明治日本が受け入れた「文明」の側にあったのか。
それとも日本人の民族性にもともと内在されていたものなのか。
あるいは日本人の民族性と「文明」が結びついたときに生じたものなのか。
@nakano0316
— WJF Project (@WJF_Project) 2015, 12月 28
執筆中の「グローバリズムと神道」や、制作中の南京虐殺に関する動画に関連のある問いですので、下のように、より長い文章に敷衍してみました。
大日本帝国は一つの分水嶺である。これを是とすれば、いわゆる戦後右翼の立場が生まれ、これを非とすればいわゆる戦後左翼の立場が生まれる。
しかし、大日本帝国が私たちに投げかける問題は、是非の二値で片付けられるほど、単純ではない。
言うまでもなく、大日本帝国は、最終的に幕藩体制へと結実した中世封建制が成立する以前の、律令国家体制もしくは王朝国家体制の復興(restoration)という伝統への回帰と、欧米からもたらされた非日本的な新しい「文明」の受容という、一見相反する二つの要素の結びつきによって生まれた体制であった。
仮に、大日本帝国を「是」としてみよう。その「是」は一体どこに由来するのか。
その「是」は、大日本帝国が回帰しようとした日本の伝統や民族性に由来するものなのか。欧米から受容した新しい「文明」に由来するものなのか。はたまた、両者の結びつきに由来するのか。
逆に、大日本帝国を「非」とみなした場合も、同じ問いが浮上する。その「非」はどこに由来するのか。
大日本帝国が回帰しようとした日本の伝統や民族性に由来するものなのか。欧米から受容した新しい「文明」に由来するものなのか。はたまた、両者の結びつきに由来するのか。
大日本帝国が受容したのと同一の「文明」の中に、私たちが現在も置かれており、かつ、大日本帝国が回帰しようとした伝統や民族性の中に、私たちが産み落とされたことが、一つの逃れがたい宿命であるのならば、大日本帝国が私たちに提示する「文明」と「民族性」の相克と結合という本質的な問いを、深く、緻密に思索することを避けていては、大日本帝国が隆盛を極めていた時代以上に、「文明」が圧倒的な力をもって、地球のすみずみまでも、「隈なく」=「神なく」呑み尽くそうとする、二十一世紀のグローバル化の時代を、私たち日本人は、生き延び、乗り越えていくことができないだろう。
大日本帝国が根底に抱えもつ「文明」と「民族性」の複合性は、これを単純に礼賛して右翼に堕したり、これを単純に唾棄して左翼に堕するような、安逸な思考の停止を私たちに許さないのである。
明治維新以来の、いや、さらに元をたどれば、日本列島に農耕がもたらされた弥生時代以来の、さらに元をたどれば、おそらくは人類が誕生して以来の、「文明」という、普遍性を志向する人間の性向と、「民族性」という、特殊性の中にとどまろうとするという人間の性向の、二つの絡み合いの問題を解き明かさなければ、その延長線上に展開するグローバリズムの問題も正しく克服していくことはできないのではないかと考えます。
従って、従来の型どおりの「右翼」も、従来の型どおりの「左翼」も、グローバリズムや安倍政権に正しく対峙することはできません。
既成の模範解答(イデオロギー)に落ち込むことを注意深く避ける、批判的で、媒介的で、クリエイティブな思考がもとめられています。
「右翼」による賛美や、「左翼」による嫌悪という、典型的な姿勢とは異なり、「多元的保守」は「明治体制」を肯定も否定もしません。「明治体制」を理想化もせず、同時に、日本の歴史から排除も切断もしません。縄文時代から現代に至る、日本人の歴史的歩みの総体の中に、「明治体制」を相対化すると同時に、包摂しようとします。
(出典: WJFプロジェクト「『多元的保守』とは何か(6)」2014年9月20日 )
大日本帝国(明治体制)という時代は、「縄文から現代に至る日本人の歴史的歩みの総体」の一部にすぎません。
自分の身体の一部をことさら愛したり嫌ったりする姿勢がどこか不健全で病的なように、日本史の一時代を切り取って、ことさらこれを礼賛したり否定したりしてみせる姿勢も、不健全で病的なものであると思います。
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