神々のサミット

神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて。
本日は、11月21日から島根県の出雲大社で執り行われている「神在祭(かみありさい)」の最終日です。

全国の八百万神等が、出雲の大国主のもとに参集して、幽世(かくりよ)の神事(かむこと)について話し合う神議(かむはかり)が行われると言われています。

本日、午後四時からの「神等去出祭(からさでさい)」で、八百万神等が出雲大社を出立されるのをお見送りして、神在祭は締めくくられます。

私は、昨年の神在祭の期間に、出雲を訪れる機会を与えられ、深い印象を受けました。

日本人の土着の生活に密着した「地祇的」なものと、国家の形成に関わる「天神的」なものとのコントラストを通して、日本の歴史や政治を考え直してみようと思い立つきっかけとなりました。

「神在祭」は、出雲大社から西へ歩いて10分ほどの稲佐の浜で行われる「神迎神事(かみむかえしんじ)」によって始まります。
全国の八百万神等は、国譲り神話の舞台ともなった稲佐の浜から、龍神の先導によって、出雲の地に入場されます。





二神(ふたはしらのかみ)、是に 出雲國の五十田狹之小汀(いたさのおはま)に降り到り、則ち十握劒(とつかのつるぎ)を拔き、地に倒に植(つきた)てて、其の鋒の端に踞(あぐみい)て、大己貴神(おおあなむちのかみ)に問いて曰く、「高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、皇孫(すめみま)を降し、此の地に君臨せんと欲す。故、先ず我二神を駈除(はら)い平定(やわし)に遣す。汝(いまし)が意(こころ)は何如(いかに)。當(まさ)に避(さ)らんや不(いな)や」。

(出典: 『日本書紀』神代下第九段)

出雲大社の荒垣内の左右にある十九社は、神在祭の期間、八百万神等が滞在する宿であり、この時期だけ、扉が開かれます。



神々のサミットが開かれる会場は、出雲大社と引佐の浜の間に位置する「上社」という小さな摂社です。



出雲に八百万神等が結集するというこの神話は、出雲大社側が参拝者集めのために勝手に作ったお話にすぎないと考える人たちもいますが、12世紀前半の平安時代に成立した『奥義抄』という歌学書に、次のように記されているように、かなり古い時代から信じられていたようです。

十月、神無月、天の下のもろもろの神出雲にゆきてこと国に神なきゆゑにかみなし月といふをあやまれり。

(出典: 藤原清輔『奥義抄』)

古代から、大和朝廷が、出雲大社を重要視し、熱心な崇敬を寄せていたその格式の高さを考えれば、旧暦10月に行われる出雲の「神在祭」が、伊勢神宮の旧暦9月の神嘗祭や、天照大神が創始されたとされる旧暦11月の新嘗祭に匹敵する、重要な神事として古くから見なされていた可能性は、考えられないでしょうか。

国譲りの決断によって「天神(あまつかみ」)と「地祇(くにつかみ)」との宥和を実現し、日本の基礎が築かれる上で大きな貢献を果たした大国主のもとを、全国の神々が表敬訪問するというこの神話は、記紀に記録されている神話とも、深く調和し合致するものだと思います。

いずれにしても、「民主主義」や「議会」なるものが西洋から導入されるはるか以前から、参集や話し合いによって、物事が決められるという考え方を日本人がもっていたことは、興味深いことだと思います。

これらの神話は、現代人の目からは「迷信」として一笑に付されるものかもしれませんが、かつて、出雲にほどちかい島根県の松江市に暮らしたラフカディオ・ハーンは、「神話」と「文明」が、ふたつにひきさかれつつあった明治の日本人の姿を見つめながら、次のように記しました。

『知られざる日本の面影』序文

1871年に、ミットフォード氏が上梓(じようし)した、名著『古き日本の物語』の序文には、のように書かれている。「最近の日本に関する書物は、官庁の報告に準じたものか、通りすがりの旅行者が残した、うわべだけの印象にすぎない。日本人の内なる生活は、世界広しといえどもほとんど知られていない。日本人の宗教、迷信、思考様式、彼らを突き動かす隠れた原動力これらはすべて、いまだに神秘のべールに包まれている」

ミットフォード氏が言及する日本人の生活こそ、私がわずかながら垣間(かいま)みることのできた、「知られざる日本」の姿である。ひょっとしたら読者の皆さんは、私の瞥見(べつけん)したものがあまりにわずかなので、失望されるかもしれない。だが、たかだか四年余り日本人に交じって暮らしただけでは、たとえ、その社会の習俗を取り入れようと努力したにせよ、しょせんは外国人の限界は免れないであろう。かくも不思議なこの国に精通するには、四年くらいではとても及ばないのだ。本書において、どれだけ達成し得てないか、どれだけ残された課題が多いか、私本人が、誰よりも痛感している次第である。

本文で触れているような、日本の民間信仰、とりわけ仏教から派生した考え方や、珍しい迷信などは、新しい日本の知識階級にはほとんど受け入れられていない。今日の西洋化した日本人は、抽象的な一般概念や、哲学的な思考には無関心であるという特徴は抜きにしても、知性の面では、教養あるパリやボストンの人々とほとんど対等といえる。ところが日本の知識階級は、超自然的なものに関する認識については、はなから過度に侮辱する嫌いがあり、刻下の宗教的な大事となると、完壁に無関心である。大学で近代哲学を学んでも、社会学とか心理学とか、その学問的関連性を独立して研究しようなどという気はほとんど起こらないようだ。彼らにとって、迷信はただの迷信でしかないのだ。迷信と日本人の情緒との関連性などに至っては、まったくもって興味の対象外である。

それというのも、日本人がみずからを徹底して理解しているからというだけでなく、その知識階級が、きわめて当然のこととはいえ、いまだに訳もなく、自分たちの古い信仰を恥じているせいでもある。人間の知識を絶対視しない不可知論者を自称するほとんどの西洋人なら、仏教よりも遥かに不合理な信仰から解放され、われらが先祖の暗澹たる神学を振り返ったときの感情を思い出してみればよかろう。知性ある日本は、このたった二、三十年の間に不可知論を唱えるようになった。このように精神的な変革が急激に行われたことが、今の上流階級の仏教に対する態度の原因のすべてである、とまでは言わないまでも、主要な原因の説明にはなるのではなかろうか。現在のところ、彼らの態度はほとんど狭量に近いといえる。しかも、迷信とは一線を引く宗教に対してさえそうなのだから、正当な宗教と区別される迷信となると、彼らはいっそう頑なに受け入れようとはしない。

ところが、日本人の生活の類まれなる魅力は、世界のほかの国では見られないもので、あまた日本の西洋化された知識階級の中に見つけられるものでもない。どこの国でもそうであるように、その国の美徳を代表している庶民の中にこそ、その魅力は存在するのである。その魅力は、喜ばしい昔ながらの慣習、絵のようなあでやかな着物、仏壇や神棚、さらには美しく心温まる先祖崇拝を今なお守っている大衆の中にこそ、見出すことができる。もし外国人の観察者が、運よくその生活の中に入ることができ、共感できる心を持っていたなら、それこそ、それは飽きることのない生活であり、そしていつしか傲慢な西洋文明の進歩がこのような方向性でいいものか、疑わずにはいられなくなるであろう。

年月を重ねるにつれ、日に日に日本人の生活の中から、珍しい予想もしなかった美しさが現れてくるであろう。もちろん、どんな生活にも暗い面はある。それでも、西洋のそれに比べれば、明るいものだ。日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない患勲さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。

  さらに、西洋人のより広範な物の見方からすると、たとえどんなに東京などでは軽蔑されていようとも、もっとも大衆になじんだ迷信とは、希望や恐怖や善悪の体験、いうならなぞ霊界の謎を解こうとする素朴な努力の、紙に書かれていない文学の断片として、珍重すべき価値があるのである。日本人の屈託のない親しみやすい迷信が、どれだけ日本人の生活に妙味を添えているかは、その中にどっぷりとつかって生活してみれば、実によく理解できることであろう。迷信にも、狐の悪霊などのように、数は少ないが不吉なものもある。だが、こうしたものも、公の教育の普及によって急速に消えつつある。むしろその多くは、その発想の美しさで、今日の著名な詩人がいまだに想像力の源泉としている、ギリシャ神話に匹敵するほどである。

また一方では、迷信の中には、不幸な人への親切や、動物愛などをすすめるものも多くあり、それらは、喜ばしい道徳観を生み出している。家で飼われる動物は、人なつこいし、野生動物は、人前でもあまり動じない。汽船が入港するたびに食べ物の屑を恵んでもらえると期待し、白い雲のように集まってくる鴎の群れ。参拝者がばらまいた米粒を拾いに、寺の軒から羽をはばたかせて舞い降りてくる鳩。

古風な公園に飼われている人慣れした鸛(こうのとり)。お菓子や人間になでられるのを待っている神社の鹿。人影が水に映ると、聖なる蓮池から頭を突き出す魚。これらを始めとする数多くの美しい光景は、すべて迷信といわれている想念から生まれ出てくるものであり、その想念が「万物は一なり」という崇高な真理を、きわめて単純な形で繰り返し説いてきた賜物なのである。こうした迷信とは違い、その怪奇さに思わず笑い出してしまうような、味気ない迷信のことを考えてみても、公平に見れば、レッキーの次の言葉を思い浮かべることだろう。

「多くの迷信は、ギリシャ人の盲目的な『神々への畏怖』という認識に、まさしく呼応するものであり、それは、これまで人類に言いがたい不幸を生み出してきた。しかし、そうでない傾向を持つものも非常に多い。迷信は、われわれの恐怖心に訴えかけるだけでなく、希望にも訴えかけるものがある。往々にして、心の奥底の要求に合致し、それを満足させることもある。理性が可能性や蓋然性を判断する上で、迷信がかえってその真偽に太鼓判を押してくれる存在であったり、想像力のわき出る泉であったりもする。ときには、それが道徳的真理に新しい判断を下すときもある。また、迷信のみが満たすことのできる欲求、迷信のみがなだめうる恐怖を生み出すことで、迷信が人間の幸福になくてはならないものになることも多い。元気をなくしたとか、困難に陥ったとか、人が一番慰められたいときに、迷信はその持ち前の力を最大限に発揮する。

人間は、知識よりも幻想に頼る存在なのだ。思索する上で、たいがい批判的で破壊的な理性よりも、全体的にみて建設的な想像力の方が、われわれの幸福に貢献するのではないだろうか。人間が本当に困ったときには、気取った哲学理論よりも、粗野な人でも、危険時や困窮時に思わず胸に握りしめる粗末なお守りや、貧しい人の家にもご加護を注ぎ、守ってくれると信じられている御神像の絵の方が、実際に心を癒してくれるものである。批評精神が広まれば、楽しげな信仰がすべて残り、苦痛を強いる信仰はことごとく消え失せる、と思いこむのは浅はかな考えである」

まことに残念なことに、近代日本の批評精神は、日本人の素朴で幸せな信仰を破壊し、それに代えて、西洋の知性ではもうとっくに廃れてしまった、あの残酷な迷信、宥(ゆる)さぬ神と永遠の地獄とを心に抱かせようとする迷信、を広めようとする諸外国の執拗な試みに、対抗するどころか、間接的に加担している。今から百六十年以上も前に、ケンペルは、日本人のことをこう書き記している。「美徳の実践、汚れなき生活、信仰の儀礼において、日本人はキリスト教徒をはるかに凌いでいる」と。開港都市のように、本来の道徳律が外国人によってはなはだしく犯されている地を除けば、この言葉は、今でも日本人に当てはまるといえる。日本がキリスト教に改宗するなら、道徳やそのほかの面で得るものは何もないが、失うものは多いといわねばならない。これは、公平に日本を観察してきた多くの見識者の声であるが、私もそう信じて疑わない。

1894年5月、日本九州熊本にて ラフカディオ・ハーン

(出典: ラフカディオ・ハーン『新編日本の面影』池田雅之訳、角川ソフィア文庫)
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惟神の道

丁度、先週の土曜の神社参拝の折に「天津祝詞」を唱えていて、「諸々の枉事罪穢れを拂ひ賜へ清め賜へ」のくだりでふと、「神社本庁とも関係が深いであろう安倍首相は大祓詞をはじめとした祓詞(更には神道自体)を一度でも真剣に受け止めたことがあるのだろうか?その上で政治に相対したことがあるのだらうか?」等々、考えるまでもない虚しい疑問とはいえ色々な思いが湧き上がっていたところに、よい記事を有難うございます。

私もこのくだりを読むまですっかり忘れていましたが、昔中学校の先生からだったか書籍からだったか、「神無月」・「神在月」について民主主義と絡めて教えられたことを今になって思い出しました。

>「民主主義」なるものが西洋から導入されるはるか以前から、神々の会議によって物事が決められるという考え方を日本人がもっていたことは、興味深いことだと思います。

それと同時にこちらの安倍首相の演説を思い出し、あらためて憮然としております。

「平成27年4月29日 米国連邦議会上下両院合同会議における安倍内閣総理大臣演説」
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0429enzetsu.html
>私の苗字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。
>農民大工の息子が大統領になれる、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。
>日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。

かくの如き日本人らしからぬ日本の首相の話はさておき、先週の連休を利用して、欧州の知人の一人が出雲大社に、別の一人は熊野本宮に参拝したばかりだそうなので、こちらの記事で学んだことなども話してみようと思います。
また、小説『グローバリズムと神道』についても、いつもスサノオノミコトを主祭神とする神社でお祈りしながら、「神祇史観が自然な形で人々の心に浸透していくとよいな」と感じていたので、「まさにこれこそ」という気が致しました。
私自身も自己研鑽しつつ、何事も順調に進むよう引き続きお祈りさせて頂きます。
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