「売春婦か、性奴隷か」と問うなかれ(1)
二元的思考の弊害、ここにも。
産經新聞が、今月、慰安婦を「性奴隷」と明記した最終見解を出した、国連欧州本部自由権規約委員会の「NGOブリーフィング」の場で生じた、ある日本人女性と国連人権委員会委員との間のやりとりを報じています。
「慰安婦はお金を受け取っていたから、性奴隷ではないのではないか。」
という日本人女性の問いかけに対し、国連人権委員会の委員が、
「お金を受け取っていたかいないかは重要ではない。」
と答えたというのですが、この委員の返答は、もっともであると言わざるを得ません。
「慰安婦は性奴隷である」とする、国連や、韓国や中国や、日本の左派の人々の主張に対して、
「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か」
という二項対立的な問いを掲げて、慰安婦たちの給与明細などを示し、「慰安婦はお金をもらっていた売春婦なのだから、性奴隷ではない」と抗弁することが、「保守」の人々の間に、一つの型として定着しています。
たとえば、藤井厳喜氏という「保守」論客によって、"The Comfort Women Controversy : Sex Slaves or Prostitutes" (「慰安婦問題: 性奴隷か、売春婦か」)と題されて、YouTubeに公開されている下の動画も、「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か」という問題設定を踏襲しています。
また、randomyoko氏による下の動画も、「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か」という同じ問いをベースにして、「慰安婦たちはお金をもらって働いていた『売春婦』だったのだから、自分たちは『性奴隷』だったと日本をなじる韓国人の元慰安婦たちは強欲な嘘つきだ」という主張を展開しています。
しかし、これまでも繰り返し述べてきたことですが、「慰安婦は、性奴隷か、売春婦か」と問う、二元的な問題設定の仕方そのものが、まったく、適切ではありません。
その理由は、「売春婦」という概念と、「性奴隷」という概念は、共通部分を持たない「排反事象」ではないからです。
下の図のように、「売春婦」という概念と、「性奴隷」という概念が、共通部分をもたないならば、「売春婦である」ことは、そのまま「性奴隷ではない」ことを意味するため、「慰安婦は、売春婦だから、性奴隷ではない」という論証は成り立ちます。

しかし、世界の人たちが「性奴隷」という言葉を、どのような意味で用いているか、一つの例を取り上げるならば、WJFプロジェクトの「『危機に瀕する日本』第二巻: セックスと嘘と従軍慰安婦」という動画の中でも紹介した、下のサンフランシスコ・クロニクルの記事。

この記事は、多重債務に陥った韓国人女子大生が、借金の返済のためにアメリカに送られて、売春婦として働くことを強要された人身売買の事件を報じているのですが、お客から金を受け取り「売春婦」として働いていたこの女性は、記事の中で「性奴隷」と呼ばれています。これが世界の人たちの「性奴隷」という言葉の認識です。
つまり、世界の人々は、下の図のように、「性奴隷」という概念を、「売春婦」という概念と、共通部分を持つ概念として用いています。

というよりも、世界の人権家たちによって「性奴隷」として問題視されている事例のほとんどは、「女性が誘拐されて犯人の自宅に監禁されて性的暴力を受けた」といったような個別的な犯罪よりも、世界の性産業の現場で一定の割合で発生する人身売買のような社会的問題ではないでしょうか。

であるならば、「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か」という、「保守」の人々が世界に対して掲げる問いかけは、世界の人々の理解や共感を得られるどころか、むしろ、ナンセンスな問いとして、失笑の対象にすらなってしまいます。つまり、
「慰安婦は、売春婦だから、性奴隷ではない」
という論理は成立しないのです。
ものごとを、「あれか、これか」という、単純な二項対立の問題に還元しようとする、二元的思考の悪い癖が、現在の日本人に中に深く刷り込まれており、このことがさまざまな分野で弊害をもたらしているわけですが、慰安婦問題も、その典型的な例の一つであると申し上げずにはおれません。殊に、
「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か」
と問う、慰安婦問題の単純な二項への「切り分け」が、日本人を「右翼」と「左翼」という、二つの陣営にすっぱりと「切り分け」囲い込むための、一種の分別装置として機能してしまっていることが問題です。
慰安婦問題を通して、
「慰安婦は売春婦だ」
と考える右派と、
「慰安婦は性奴隷だ」
と考える左派に、日本人は、二つに「切り分け」られてしまっており、そのことが日本全体に政治的な不幸をもたらしています。
日本人の融和と一致を取り戻し、正しい政治を立ち上げるためにも、物事を単純化し、二項対立を煽る、二元的な思考そのものを解体する必要があります。
WJFプロジェクトの、「慰安婦神話の脱神話化」という動画のシリーズは、「慰安婦は、性奴隷か、売春婦か」と問う、従来の二元的な問題設定から脱却し、慰安婦問題の多面性・多重性をうきぼりにするのと同時に、「慰安婦は性奴隷である」という、世界に蔓延する全称命題の切り崩しをねらった動画です。
引き続き、動画の拡散にご協力ください。
参考記事:
ものごとは二元性を超えた場所にある
「すばらしき世界よ、永遠なれ」
「性奴隷」明記に立ち上がった主婦 「お金もらったのでは」
日本の人権状況に関し、国連欧州本部(スイス・ジュネーブ)の自由権規約委員会は24日に発表した最終見解で、慰安婦を「性奴隷」と明記し、日本政府を非難した。1996年に国連人権委員会(現人権理事会)に出されたクマラスワミ報告書をはじめ、国連は慰安婦問題で日本を批判してきた。間違ったことがあたかも事実のように喧伝(けんでん)されてきた背景には国連を利用し、自らの主張を通そうとする左派・リベラル勢力の活発な動きがある。
「NGOによる委員洗脳の場」
今月15、16の両日、ジュネーブのレマン湖を見下ろす高台にある国連欧州本部で行われた自由権規約委員会。日本に対する審査で、日本政府代表団は慰安婦について、戦時の日本の官憲が組織的に朝鮮半島から女性たちを無理やりに連行するという「強制」は確認できないと説明した。しかし、委員たちは聞く耳を持たなかった。
事実関係と異なるストーリーは、これまでも何度となくジュネーブの国連本部から発信されてきた。
代表的なのは、クマラスワミ報告書だ。虚偽であることが明白な著作などを基に、慰安婦を「性奴隷」と定義し、その人数を「20万人」と記述した。
98年に提出されたマクドゥーガル報告書は、慰安所を「強姦(ごうかん)所」と呼んだ。さまざまな機関が、まるで日本が慰安婦問題について頬かぶりしているかのような表現で、日本の責任を追及する報告書や勧告を相次いで出してきた。
外交筋は国連が「究極の人権保障に向けて各国政府をたたき続ける存在であることが大きい」と指摘する。特にジュネーブは国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が本部を置くことから同地に事務所を持つ人権関係の非政府組織(NGO)も多く、委員との情報交換やロビー活動が日常的に行われている。
国家による「政治」の場がニューヨークの国連本部なら、個人の「人権」はジュネーブの国連本部が本場なのだ。今回の審査をみてもなぜ国連が日本を批判しつづけてきたかがわかる。
対日審査に先だって14、15の両日、地元記者が「NGOによる委員洗脳の場」と揶揄(やゆ)する「NGOブリーフィング」が実施された。
15日には日本の16団体の代表が慰安婦問題をはじめ特定秘密保護法、死刑制度、朝鮮学校の高校無償化除外などに関し、イデオロギー色の濃い説明を委員たちに英語で伝えた。
ブリーフィングの主催者は、今回の審査のために結成された日本弁護士連合会などの団体からなる「ジャパン・NGO・ネットワーク」。会場に入るには事前登録が必要だ。
会場には慰安婦問題解決や死刑制度廃止、ヘイトスピーチ(憎悪表現)禁止の法整備などを求め日本から来たNGO関係者ら約70人が陣取っていた。ほとんどが左派・リベラル勢力だ。
直撃された南ア委員「重要でない」
こうしたなか、ひとりの「普通」の主婦が立ち上がった。16日の審査終了後、傍聴したスイス在住の日本人主婦、大坪明子(めいこ)(57)は、審査で日本を批判した南アフリカの委員、ゾンケ・マジョディナにこう質問した。
「あなたが『慰安婦は奴隷』と言ったのでとてもショックを受けました。本当に彼女たちはお金をもらっていなかったんですか」
慰安婦が旧日本軍兵士の数十倍の月収を得ていたことは、米軍資料などでも記録されている。なぜ国連の場で日本ばかりが標的にされるのか、大坪は疑問に感じ審査に足を運んでいた。
マジョディナは答えた。
「お金を受け取っていたかいないかは重要ではない。奴隷的な扱いを受けていたかどうかが問題で、『奴隷』に該当する」
なおも事実関係をただそうとする大坪にマジョディナはこう言い放った。
「その質問は重要ではないので答えない」
短時間のやりとりだったが、大坪はたちまちほかの委員や日本のNGOメンバーらに取り囲まれた。「やり過ぎだ!」などといった日本語も飛び交った。
(出典: 産經新聞 2014年7月26日)
「慰安婦はお金を受け取っていたから、性奴隷ではないのではないか。」
という日本人女性の問いかけに対し、国連人権委員会の委員が、
「お金を受け取っていたかいないかは重要ではない。」
と答えたというのですが、この委員の返答は、もっともであると言わざるを得ません。
「慰安婦は性奴隷である」とする、国連や、韓国や中国や、日本の左派の人々の主張に対して、
「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か」
という二項対立的な問いを掲げて、慰安婦たちの給与明細などを示し、「慰安婦はお金をもらっていた売春婦なのだから、性奴隷ではない」と抗弁することが、「保守」の人々の間に、一つの型として定着しています。
たとえば、藤井厳喜氏という「保守」論客によって、"The Comfort Women Controversy : Sex Slaves or Prostitutes" (「慰安婦問題: 性奴隷か、売春婦か」)と題されて、YouTubeに公開されている下の動画も、「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か」という問題設定を踏襲しています。
また、randomyoko氏による下の動画も、「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か」という同じ問いをベースにして、「慰安婦たちはお金をもらって働いていた『売春婦』だったのだから、自分たちは『性奴隷』だったと日本をなじる韓国人の元慰安婦たちは強欲な嘘つきだ」という主張を展開しています。
しかし、これまでも繰り返し述べてきたことですが、「慰安婦は、性奴隷か、売春婦か」と問う、二元的な問題設定の仕方そのものが、まったく、適切ではありません。
その理由は、「売春婦」という概念と、「性奴隷」という概念は、共通部分を持たない「排反事象」ではないからです。
下の図のように、「売春婦」という概念と、「性奴隷」という概念が、共通部分をもたないならば、「売春婦である」ことは、そのまま「性奴隷ではない」ことを意味するため、「慰安婦は、売春婦だから、性奴隷ではない」という論証は成り立ちます。

しかし、世界の人たちが「性奴隷」という言葉を、どのような意味で用いているか、一つの例を取り上げるならば、WJFプロジェクトの「『危機に瀕する日本』第二巻: セックスと嘘と従軍慰安婦」という動画の中でも紹介した、下のサンフランシスコ・クロニクルの記事。

この記事は、多重債務に陥った韓国人女子大生が、借金の返済のためにアメリカに送られて、売春婦として働くことを強要された人身売買の事件を報じているのですが、お客から金を受け取り「売春婦」として働いていたこの女性は、記事の中で「性奴隷」と呼ばれています。これが世界の人たちの「性奴隷」という言葉の認識です。
つまり、世界の人々は、下の図のように、「性奴隷」という概念を、「売春婦」という概念と、共通部分を持つ概念として用いています。

というよりも、世界の人権家たちによって「性奴隷」として問題視されている事例のほとんどは、「女性が誘拐されて犯人の自宅に監禁されて性的暴力を受けた」といったような個別的な犯罪よりも、世界の性産業の現場で一定の割合で発生する人身売買のような社会的問題ではないでしょうか。

であるならば、「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か」という、「保守」の人々が世界に対して掲げる問いかけは、世界の人々の理解や共感を得られるどころか、むしろ、ナンセンスな問いとして、失笑の対象にすらなってしまいます。つまり、
「慰安婦は、売春婦だから、性奴隷ではない」
という論理は成立しないのです。
ものごとを、「あれか、これか」という、単純な二項対立の問題に還元しようとする、二元的思考の悪い癖が、現在の日本人に中に深く刷り込まれており、このことがさまざまな分野で弊害をもたらしているわけですが、慰安婦問題も、その典型的な例の一つであると申し上げずにはおれません。殊に、
「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か」
と問う、慰安婦問題の単純な二項への「切り分け」が、日本人を「右翼」と「左翼」という、二つの陣営にすっぱりと「切り分け」囲い込むための、一種の分別装置として機能してしまっていることが問題です。
慰安婦問題を通して、
「慰安婦は売春婦だ」
と考える右派と、
「慰安婦は性奴隷だ」
と考える左派に、日本人は、二つに「切り分け」られてしまっており、そのことが日本全体に政治的な不幸をもたらしています。
日本人の融和と一致を取り戻し、正しい政治を立ち上げるためにも、物事を単純化し、二項対立を煽る、二元的な思考そのものを解体する必要があります。
WJFプロジェクトの、「慰安婦神話の脱神話化」という動画のシリーズは、「慰安婦は、性奴隷か、売春婦か」と問う、従来の二元的な問題設定から脱却し、慰安婦問題の多面性・多重性をうきぼりにするのと同時に、「慰安婦は性奴隷である」という、世界に蔓延する全称命題の切り崩しをねらった動画です。
引き続き、動画の拡散にご協力ください。
参考記事:
ものごとは二元性を超えた場所にある
「すばらしき世界よ、永遠なれ」