私たちを誤らせる論理
「あれか、これか」を超えよ。
※この記事は、旧ブログの記事「「私たちを誤らせる論理」(2013年1月7日)」を少し修正して再掲したものです。安倍政権発足直後であり、まだ三橋貴明に不信感を抱く前に書かれています。
日本を迷走させてきた論理があると思います。
それは、
日本を迷走させてきた論理があると思います。
それは、
「あれか、これか」
という二元的な論理。
「あれか、これか」と対立する二項を立て、一方を善となし、他方を悪となす、単純な善悪二元論的な思考。
たとえば、「アメリカ(善)VSソ連(悪)」という善悪二元論。
たとえば、「構造改革推進派(善)VS抵抗勢力(悪)」という善悪二元論。
たとえば、「民主党(善)VS自民党(悪)」という善悪二元論。
たとえば、「自民党(善)VS民主党(悪)」という善悪二元論。
たとえば、「安倍政権(善)VSマスコミ(悪)」という二元論。
たとえば、「アメリカ(善)VS中国(悪)」という二元論。
たとえば、「中国(善)VSアメリカ(悪)」という二元論。
このような善悪二元論的な枠組みで物事を考え、「善」だと思う方を選ぶ、ということを繰り返していくかぎり、日本はいつまでも迷走を続けるでしょう。
なぜか。
それは、今私たちが直面している課題は、
「日本がいかに日本として立つか」、
「日本がいかに日本であり続けるか」、
「日本をいかに取り戻すか」、
「日本がいかに日本らしくなるか」
といった課題であり、この課題は、世界を「あれか、これか」で二分して、片方の陣営に付くというやり方では、絶対に実現できない課題だからです。
この思考法のもう一つの問題点は、この世に絶対的な「善」など存在しないのに、片方を選び、他方を排することで、片方の立場をあたかも絶対的な「善」であるように、私たちが思い込んでしまいがちであるということです。
それゆえに、この思考法は、大衆を一つの方向に向かわせようとするときに権力者やマスコミが頻繁に用いる思考法です。またカルト宗教の教祖たちもこの論理を使うのが大好きです。
ちなみに、日本の神道は多元的であり、このような善悪二元論は採用しません。日本の文化のすばらしいところだと思います。
日本が日本らしくあるための真の答えは、「あれか、これか」という問い以外のところにあります。
私は三橋貴明氏の本が好きで、読んで励まされることが多いのですが、彼の著書は全て、いかにグローバリズムとそれがもたらした長期のデフレと経済停滞の中で、日本の「国民経済」を復活させるか。日本を「国民国家」として維持し繁栄させるかという問題意識に貫かれて書かれていると思います。
私たちが安倍政権に期待しているのも、まさに三橋氏と同じく、日本を一つの独立し繁栄した「国民国家」として立たせてくれることであり、そのために「戦後体制の脱却」や「デフレの脱却」を実現してくれることなわけですが、どうも向かってる方向が違う。
確かにアベノミクスは、金融緩和と公共事業の拡大という点では三橋氏の主張と同じですが、三橋氏が主張されているもっとも大切な「国民経済」の樹立、「国民国家」の堅持という方向性と正逆の、従来のグローバリズムを推進する構造改革路線の方向に駒を進めつつあるかに見えます。
繰り返しますが「日本が日本として立つ」とか「国民国家の堅持」とか「国民経済の樹立」とか、このような私たちの究極目標は「あれか、これか」の二元的な問いを立てて、片方を選び、片方の陣営に加わるというやり方では実現できません。
冷戦構造の焼き直しのような、「アメリカ(善)VS中国(悪)」という二項を立てて、「アメリカ陣営」に日本を組み込むことでは、日本の「戦後体制の脱却」は絶対に果たすことはできません。この二元論を突き抜けていくこと。そこに「日本が日本である」場所や可能性を私たちは見いだしていかなければならないと思います。
アメリカに付くのでもなく、中国に付くのでもなく、私たちが自らの力で、ただ日本として立つ方向に向かって、困難を取り除き、着々と努力を重ねていくべきだと思います。それこそが本当の意味の「戦後体制の脱却」だと思います。
「あれか、これか」と対立する二項を立て、一方を善となし、他方を悪となす、単純な善悪二元論的な思考。
たとえば、「アメリカ(善)VSソ連(悪)」という善悪二元論。
たとえば、「構造改革推進派(善)VS抵抗勢力(悪)」という善悪二元論。
たとえば、「民主党(善)VS自民党(悪)」という善悪二元論。
たとえば、「自民党(善)VS民主党(悪)」という善悪二元論。
たとえば、「安倍政権(善)VSマスコミ(悪)」という二元論。
たとえば、「アメリカ(善)VS中国(悪)」という二元論。
たとえば、「中国(善)VSアメリカ(悪)」という二元論。
このような善悪二元論的な枠組みで物事を考え、「善」だと思う方を選ぶ、ということを繰り返していくかぎり、日本はいつまでも迷走を続けるでしょう。
なぜか。
それは、今私たちが直面している課題は、
「日本がいかに日本として立つか」、
「日本がいかに日本であり続けるか」、
「日本をいかに取り戻すか」、
「日本がいかに日本らしくなるか」
といった課題であり、この課題は、世界を「あれか、これか」で二分して、片方の陣営に付くというやり方では、絶対に実現できない課題だからです。
この思考法のもう一つの問題点は、この世に絶対的な「善」など存在しないのに、片方を選び、他方を排することで、片方の立場をあたかも絶対的な「善」であるように、私たちが思い込んでしまいがちであるということです。
それゆえに、この思考法は、大衆を一つの方向に向かわせようとするときに権力者やマスコミが頻繁に用いる思考法です。またカルト宗教の教祖たちもこの論理を使うのが大好きです。
ちなみに、日本の神道は多元的であり、このような善悪二元論は採用しません。日本の文化のすばらしいところだと思います。
日本が日本らしくあるための真の答えは、「あれか、これか」という問い以外のところにあります。
私は三橋貴明氏の本が好きで、読んで励まされることが多いのですが、彼の著書は全て、いかにグローバリズムとそれがもたらした長期のデフレと経済停滞の中で、日本の「国民経済」を復活させるか。日本を「国民国家」として維持し繁栄させるかという問題意識に貫かれて書かれていると思います。
私たちが安倍政権に期待しているのも、まさに三橋氏と同じく、日本を一つの独立し繁栄した「国民国家」として立たせてくれることであり、そのために「戦後体制の脱却」や「デフレの脱却」を実現してくれることなわけですが、どうも向かってる方向が違う。
確かにアベノミクスは、金融緩和と公共事業の拡大という点では三橋氏の主張と同じですが、三橋氏が主張されているもっとも大切な「国民経済」の樹立、「国民国家」の堅持という方向性と正逆の、従来のグローバリズムを推進する構造改革路線の方向に駒を進めつつあるかに見えます。
繰り返しますが「日本が日本として立つ」とか「国民国家の堅持」とか「国民経済の樹立」とか、このような私たちの究極目標は「あれか、これか」の二元的な問いを立てて、片方を選び、片方の陣営に加わるというやり方では実現できません。
冷戦構造の焼き直しのような、「アメリカ(善)VS中国(悪)」という二項を立てて、「アメリカ陣営」に日本を組み込むことでは、日本の「戦後体制の脱却」は絶対に果たすことはできません。この二元論を突き抜けていくこと。そこに「日本が日本である」場所や可能性を私たちは見いだしていかなければならないと思います。
アメリカに付くのでもなく、中国に付くのでもなく、私たちが自らの力で、ただ日本として立つ方向に向かって、困難を取り除き、着々と努力を重ねていくべきだと思います。それこそが本当の意味の「戦後体制の脱却」だと思います。
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