古代から現在に至る日本人の歩みの総体
その総体的な視点から、個々の時代は相対化されなくてはならない。そして新しい一歩が踏み出されなくてはならない。
最近の記事で、明治以降の日本の歩みを今一度相対化してみなくてはならないと述べてきましたが、決して、明治から終戦にかけての日本を否定しようと訴えているわけではありません。私が伝えたい思いは、今年の1月8日に記した「「戦後体制」とは何か(2)」という記事の中の次の言葉に尽くされています。
戦前(戦時中)と戦後。どちらかの時代の人々が正しく、どちらかの時代の人々が間違っていたということではなく、とにもかくにも、私たち日本人は、その各々の時代を生き延びようと懸命に歩いてきた結果、現在に至っています。
そして現在明らかになっていることは、これまで私たちが正しいと信じてきたやり方では、私たちを取り巻く問題をもはや解決できないこと。新しい時代の扉を開けなくてはならないこと。
そのためには、「戦後」を否定して「戦前」に回帰すればよいということでもなく、また「戦前」を否定して「戦後」に留まればよいということでもなく、
ここでも、大切なのは、
戦前 (善) VS 戦後 (悪)
あるいは、
戦後 (善) VS 戦前 (悪)
という、善悪二元論的な枠組みで考えないことだと思います。
新しい「日本」の姿を現出させるためには、過去のある時代の日本のあり方を断片的にきりとって、それを絶対視したり、再現すればよいということではなく、それこそ縄文時代から現在に至る日本人のすべての歩みを今一度点検しなおし、歴史の最も深い根底から、私たちのあり方を再定義していくという作業が必要になるだろうと思います。
そして現在明らかになっていることは、これまで私たちが正しいと信じてきたやり方では、私たちを取り巻く問題をもはや解決できないこと。新しい時代の扉を開けなくてはならないこと。
そのためには、「戦後」を否定して「戦前」に回帰すればよいということでもなく、また「戦前」を否定して「戦後」に留まればよいということでもなく、
ここでも、大切なのは、
戦前 (善) VS 戦後 (悪)
あるいは、
戦後 (善) VS 戦前 (悪)
という、善悪二元論的な枠組みで考えないことだと思います。
新しい「日本」の姿を現出させるためには、過去のある時代の日本のあり方を断片的にきりとって、それを絶対視したり、再現すればよいということではなく、それこそ縄文時代から現在に至る日本人のすべての歩みを今一度点検しなおし、歴史の最も深い根底から、私たちのあり方を再定義していくという作業が必要になるだろうと思います。
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