さようなら、三橋貴明(2)
三橋貴明の二面性を強化した共犯者たち。
1. 新自由主義やグローバリズムはダメだと繰り返し言いながら
2. 同時に、新自由主義やグローバリズムを推進する自民党に支持を誘導する
1. 妻に向かって「お前を、愛している」と言いながら
2. 妻に対して、執拗な暴力を振るう
1. 表では、穏やかな言論人として振る舞いながら
2. 裏では凶暴な獣として振る舞う
このように、ふたつの矛盾したメッセージ、ふたつの矛盾した特質が、相互に統合され止揚されることのないまま、その二面性が分裂したまま存在している点に、三橋貴明という言論人の言説や人格の特徴があります。
さかき漣氏も、実際に、DV加害者から「ダブルバインド」的な矛盾したメッセージを受け取ってきたことを、ブログの中でほのめかしていました。
また加害者から長年にわたり身体的虐待と共に「役立たず」「バカ」「きちがい」「俺以外には誰もお前に優しくする人間はいない」「他人は絶対にお前を助けない」「俺だけがお前を理解している」などの罵倒や甘言を交互に受けてきた経験から、被害者は、自分の思考を加害者からコントロールされているに近い状態にあり、加害者以外の他人の言葉を素直に受け止めることも困難となっている。言ってみれば“カルトの洗脳が完了した”にも酷似した状況にあるのだ。
(出典: さかき漣ブログ「なぜDV被害者は加害者から逃げられないのか」2015年6月28日)
極端な二面性を抱え込むという三橋貴明に見られる一種の病理は、三橋貴明という個人が何月何日に暴力をふるったとかふるわなかったとかという表層の出来事より以前に、はるかに根の深い、構造的な問題です。
三橋貴明は、なぜ、調停されることのない二項対立を、分裂した自己を、その内部に強固に抱え込むことになったのでしょうか。
さかき漣氏が、その要因の一つを明確に語ってくれています。
さかき漣氏によれば、三橋貴明の二重性を強化してきた責任の一端は、三橋貴明の「共犯者」たちにあるというのです。
だから、ある人物について彼がDV常習犯であることを知りながら「しかし彼の『公の顔』は立派だから、虐待については不問とし、今後も懇意にしていく(または協力していく、もしくは応援していく)」という人がいたなら、それはつまり加害者の殺人未遂の罪を容認したうえ被害者の懊悩を愚弄しているということで、広義においては“人殺しの共犯”と呼ばれても仕方がないのでは、と私は敢えて苦言を呈したい。
また共犯者である彼らがDV加害者との派手な交友を続けることは、「被害者は虐待されたと証言しているものの、他の人々が加害者と普通に交際している事実から鑑みるに、被害者の話は『大げさ』もしくは『妄想』で、実はDVなど無かったに等しいのではないか」との“世間の勘違い”を助長する可能性があり、さらには被害者の『学習性無力感』を助長し、被害者の逃げ道を塞ぐ最大の障壁となる可能性があることについても、同時に指摘しておきたいと思う。
たとえば「連続で数十発にわたり殴られても」「口に物を詰め込まれ羽交い絞めにされ、数時間ものあいだ呼吸困難にされても」「何度も繰り返し壁や床に投げられ叩きつけられても」「首を絞められて顔中に点状出血斑が出現しても」「包丁をつきつけられ『殺してやる』と脅されても」たまたま死ななかっただけの人が目の前にいたとき、それでもあなたは加害者と気持ちよく酒を酌み交わせるのだろうか。
(出典: さかき漣ブログ「DV加害者の二枚舌と“共犯者の存在”」2015年6月19日)
さかき漣氏が、
だから、ある人物について彼がDV常習犯であることを知りながら「しかし彼の『公の顔』は立派だから、虐待については不問とし、今後も懇意にしていく(または協力していく、もしくは応援していく)」という人がいたなら、それはつまり加害者の殺人未遂の罪を容認したうえ被害者の懊悩を愚弄しているということで、広義においては“人殺しの共犯”と呼ばれても仕方がないのでは、と私は敢えて苦言を呈したい。
と述べているのは、藤井聡、中野剛志、佐藤健志、適菜収、平松禎史、チャンネル桜の出演者のような、三橋貴明の周囲を取り巻く人々を指して糾弾しているように私には読めます。
彼らは、三橋貴明が、さかき漣氏に対してDVを働いていることを知らなかったはずがないからです。
三橋貴明がDVの性癖を持つことを知りながら、その側面にはまったく目をつぶり、口を閉ざし、「DV加害者との派手な交友を続けること」によって、人畜無害で穏やかな言論人としての三橋の仮面作りに加担し、「“世間の勘違い”を助長」してきた。
そういう三橋の取り巻きたちに向かって、さかき漣氏は、
たとえば「連続で数十発にわたり殴られても」「口に物を詰め込まれ羽交い絞めにされ、数時間ものあいだ呼吸困難にされても」「何度も繰り返し壁や床に投げられ叩きつけられても」「首を絞められて顔中に点状出血斑が出現しても」「包丁をつきつけられ『殺してやる』と脅されても」たまたま死ななかっただけの人が目の前にいたとき、それでもあなたは加害者と気持ちよく酒を酌み交わせるのだろうか。
と辛辣に問いかけているのです。
三橋貴明の「表の顔」が、三橋の取り巻きたちや、本やブログの読者や、テレビやラジオの視聴者にひたすら向けられていったのに対し、三橋貴明の「裏の顔」は、専ら、さかき漣氏一人に向けられていきました。
また、三橋の取り巻きたちや、本やブログの読者や、テレビやラジオの視聴者が、ひたすら三橋貴明の「表の顔」のみに向き合おうとしたのに対し、さかき漣氏は、三橋貴明の「裏の顔」に一人で直面せざるをえませんでした。
三橋貴明の「表の顔」が華やかな光彩を放つのと比例して、三橋貴明の「裏の顔」はますますその陰影を濃くしていき、
三橋貴明の「裏の顔」がその陰影を濃くすればするほど、それと比例して、三橋貴明の「表の顔」はますます華やかな光彩を放っていきました。
このように、三橋貴明の二面性が、組織や集団によって、構造的に作り出されたものであることに、私たちは留意すべきであると思います。
三橋貴明が、もっと単独で活動する言論人であったならば、ここまでひどい矛盾を抱えることはなかったでしょう。
三橋貴明の人格の二面性を助長した「共犯者」たちは、同時に、三橋貴明の言論の二面性を助長する「共犯者」でもありました。
(追記)
さかき漣氏が、ブログ記事の中で伝えようとしていたことを、ダイレクトにツイートしているのを教えていただきました。
そこに虐待やDV、モラハラ、パワハラが在ることを知りながら、それでも加害者と懇意にしている人は、虐待の「共犯者」だと思う。
— さかき漣/RenSakaki (@rensakaki2016) 2017年12月25日
いじめを見て見ぬふりをして、被害者を見殺しにする人間は、いじめの共犯者。つまりは、「殺人の共犯者」だと思うよ。
いまだにあの悪魔の取り巻きしてるひとって、何なんだろう、、、壊滅的に人を見る目がないのか、それともおいしい思いをさせてもらってるから離れる気が起きないのか、それとも共犯の悪人だから、もはや一蓮托生のつもりなのか、、、
— さかき漣/RenSakaki (@rensakaki2016) 2017年12月26日
私は元来、誰かを「敵」や「悪」などと決めつけるのがキライです。
— さかき漣/RenSakaki (@rensakaki2016) 2017年12月6日
ですから、何かの事象で私が不利益を被っても、表面的には「みんながうまくいくよう、この件は黙っていよう」と判断することが多いです。
ただ唯一、例外があり。
この7年間で、私が糾弾したかった人間が、ひとりだけ、いました。
藤井聡も、中野剛志も、佐藤健志も、適菜収も、平松禎史も、チャンネル桜も、三橋貴明という化け物を生み出し、生きながらえさせてきた共犯者です。
(つづく)
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